2017年11月17日 (金)

白い闇(26)

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 この国は北部から南部にかけて幅が広くなる形である。離陸すると西海岸が目に入ったが、南下するに伴って海岸線は少しずつ遠くなった。最も機体は上昇しているので遠ざかる感じはそれほどでもなかった。水平飛行になるとアップルパイと紅茶が配られた。どちらもスーパーで売っているような袋入りとパックである。水平飛行は十分くらいで、降下が始まった。

 地上が近づくと田園の中に住宅地が転々とちらばった。高速道路や鉄道線路を飛び越えてもうすぐ着陸と思ったとたん、エンジンの音が大きくなって機体は上昇した。「管制塔からの緊急の指示により着陸をやり直します」というアナウンスが操縦室からあり、客室に張り詰めた空気が漂った。空港の敷地が窓の下を流れ、左旋回が始まった。

 高度500mくらいからLシティを見られるのはハプニングの賜物である。びっしり建物が並んだ市街地、そして緑に囲まれた王宮が目に入った。皇太子は空軍に五年勤務したのちに退職し、五年前に王位を継承した。十五年前に国営放送のアナウンサーと結婚して子供は二男一女である。

 官庁街、国会議事堂、テレビタワーを見ながらもう一度左に旋回して南北方向の滑走路に北からの進入を開始した。滑走路はターミナルをはさむように二本の4000mが並び、斜めに3000mが交差する形である。ターミナルビルの端っこに着いて長い通路を動く歩道で移動して地下鉄の駅にたどり着いた。

 前回はベッドと朝食だけという簡素な宿だったが、今回は都心に近いビジネス向けのホテルを手配した。こちらも三泊という予定である。空港からは地下鉄一本で、王宮の下からさらに東へと行くところだった。空港から地下鉄で三十分、改札を出て地上に出るとすぐの十階建てである。

 八階の部屋は西向きになっていて遠くに中央駅が見えた。隣のF国に向かう列車が発着するホームの屋根があり、赤レンガの駅ビル、その向こうは首相官邸と王宮である。突然頭上からプロペラ機の音が降って来た。このホテルから南に五キロのところにはLシティの最初の空港があった。

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白い闇(25)

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 O市には三日間滞在した。かつての炭鉱はすべてなくなり、鉄道路線は電化された部分を除いて廃止されていた。主な産業は海底油田からの石油・天然ガスというところである。大学を訪れて調べるとモノレール沿いの陶磁器工場は空港の近くに移転していた。城の横にある鉄道工場では車両生産がなくなってメンテナンスだけとなっていた。新たな車両はこの国の西部にあるR市に私の母国が作った工場で作られるという状況である。それはほかの国にも輸出するための拠点という位置づけでもあった。

 Lシティには夕方誓い飛行機で移動することとなった。とりあえずО駅周辺の商業施設を見てモノレールではなく国営鉄道での移動である。線路は国営、車両は民営という形は結局定着しなかった。旅客・貨物それぞれが政府による株式保有割合が五割という「準国営」という形である。飛行機も格安航空が次々に問題を起こして国営のものだけが国内線を運行していた。

 ステンレスに赤い帯を入れた四両編成は昔の姿のまま、一番ホームからの折り返しという形で発車した。貨物の線路をまたぐレールは昔のまま残っていたが、下は空き地の状態である。カーブを曲がりきると線路が現れてコンテナを積んだ貨車が止まっていた。J駅に滑り込むとディーゼルに乗り込んだホームはレールが取り外された上体で残っていた。O駅に向かうLシティからの高速列車が通り過ぎた。速度は100キロそこそこに落としていた。

 モノレールと交差する駅で降りて空港のターミナルまで歩いてみることにした。モノレールは空港前の巨大な駐車場を迂回するが、駐車場を突っ切るように歩くと一キロない距離である。車は意外にすくななかった。ターミナルビルの前に並んだバスから観光客が降りて中に入るのが見えた。この空港からの路線はLシティに一時間に一顰、それ以外は国際線が十都市ほどである。その国際線には格安航空もあった。

 機材は150人乗り、白い機体に赤のライン、エンジンカバーと垂直尾翼も赤とこれまた昔のままの塗装である。座席は黒い革張りですべての座席にコンセントがつけられているのは時代にあわせたものだと感じた。電子機器の充電を求める声はどこの国でも共通していた。空は晴れ渡っていて右の窓側からの景色が期待できそうだった。離陸は南に向けて行われた。空港の近くに工場や住宅地があり、すぐに緑の丘陵地帯に変わった。

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2016年12月18日 (日)

博多発着 イタリアンクルーズEコース

出発は 七月三十日 舞鶴 金沢 酒田 青森では ねpigまつりを見て 六日目は一日ship プサン そして博多へと・・・

お値段は 12万5800円から58万800円 お一人様は倍お支払いいただきますshock 港湾税が弐万2800円で チップとして84ドルご用意を

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2016年8月 3日 (水)

白い闇(24)

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 陸橋からの風景を見るとS駅からM港に向かうことにした。海側の席に腰を下ろして食い入るように変化を確かめた。溶鉱炉はそのまま残され、石炭や鉄鉱石が山積みになっていた跡には風力発電の風車が並んでいた。海軍の埠頭はそのままで、原子力空母も健在である。O駅は三本のホームに線路六本はそのまま、貨物用の線路の跡は道路になっていた。

 M港に着くと鉄道記念館に足を運んだ。三種類の蒸気機関車と二種類の客車は昔のまま、そこに赤い電気機関車、黄色に青帯のディーゼルカー、そしてLシティへ往復したときの特急車両もあった。中に入ることもできて運転席の後ろのシートに座ると240キロ走行をしたときのスリルが脳裏によみがえった。

 M港からの帰りは山側に座った。海側には風力発電の風車がずらりと並んでいたが、こちらは住宅地である。車両基地は縮小されていた。「博士」の話によるとT駅への急行は廃止され、電気機関車の基地はEに集約された。石炭や石灰石の輸送もなくなったため、ティーゼル機関車も不要となった。

 O駅に到着すると一番のりばに濃紺の車体に赤い帯を入れたLシティ行きの高速列車が止まっていた。これは私の母国の会社がEに建設した工場で作ったもので、最高速度は240キロ、Lシティまでは三時間五十分で走るようになっていた。一編成は八両になり、Lシティ側二両が一等、三両目がビュッフェと二等、あとの五両が二等である。運転席の部分だけ黄色いアクセントになっているのはやはり霧対策だった。

どうも テンションが・・・ まぁ 頭に浮かんだことを書き留めたということで ((w´ω`w))

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2016年8月 2日 (火)

白い闇(23)

二十五年過ぎて・・・ということで

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 夏休みに入ってすぐO市を訪ねることにした。朝十時にF航空に乗り、十時間のフライトでF国の首都で乗り継いだ。待ち時間は三時間、フライトタイムは二時間である。150人乗りの小型ジェットは暮れなずむO空港に舞い降りた。戦闘機も対潜哨戒機も昔のまま並んでいたし、ターミナルビルも変わらなかった。

 記念に持っていたカードにチャージしてモノレールに乗った。この車両も昔のままだが、車体にラッピング広告が施されているのはやはり収入源を広げるのに必死なのだと感じた。沿線は昔と変わらないが、Jから分岐する単線の路線は廃線になり、跡地は道路に変わった。

 キャンパスも変わっていないが、泊まるのはドミトリーではなく、O駅のホテルである。川沿いに出て高速道路をまたぐと左手にあった陶器工場は姿を消していた。市役所は昔のままで駅も変わっていなかった。二階の改札口からそのままホテルのチェックインカウンターに行き、四階の部屋の鍵をもらった。部屋はホーム側である。

 翌日、市役所の「博士」を訪ねた。彼は観光部長に昇進していた。この二十五年で、製鉄も造船もなくなり、人口は二割減ったと嘆いていた。石炭火力発電所も老朽化を理由に閉鎖され、炭鉱も閉鎖された。残った産業は軍関係と農産物の加工品、観光のみである。とりあえずO城に足を運んだ。市役所の隣にある高校の姿も同じである。

 城もまた昔のままだった。ツアー客の一行が見学していて、この人たちは港に入ったクルーズ船からである。鐘楼から見て気づいたのは貨物用の線路がなくなっていることだった。コンテナ列車はJ駅の横にある貨物駅までで、H市などに向かう貨物はトラックに積み替えられた。

 とりあえず市役所の南まで行ってS駅行きの路面電車に乗ることにした。これも昔のままである。エレクトロニクス関係の工場が撤退したため、活気がなくなってしまったことに愕然とした。S駅に着いて陸橋に行ってみた。貨物用の線路はまだ残っているものの、架線は外され、レールは赤茶色にさびていた。

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2016年7月11日 (月)

帰郷(4)

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 初めの礼の時にYへの応援の拍手が起きた。立ち上がったYは互いの剣先が接する前に反時計回りに動いた。その入り方は面返し胴を食らうぞ、と尚樹は思った。先革が触れるかどうかの位置からYは面に飛んだ。長男は左鎬でYの竹刀を受けるとその力を利用して彼が着けた黒い胴の右側面に自分の竹刀の先の部分を叩きつけた。乾いた音が響き、振り向くと審判は三人とも旗を上げた。やっぱり、というようなため息を感じた。

「二本目」の号令と同時に長男は自分から間に入った。剣先がYの竹刀の中結びのところまで行って止まった。ちょっとした剣先の攻防が起きた。長男が面攻撃に出た瞬間、Yはさっきのお返しとばかりに剣先で小さくCの字を描くようにして右前方に踏み込んだ。メタリックの胴が甲高い音をたてた。鍔元に近い部分で切ったので一本にはならないが、N中サイドから拍手が起きた。

 互いに振り向いてすぐにYは小手・面の連続攻撃を仕掛けた。面を受け止めた長男の腕が上がり、空いた右わき腹にYが切り込んだ。 鈍くはじける音がしてYは長男のヘソ下まで引き切って間合いを開けると中段の構えを取った。副審をしているほうのUがまず旗を上げ、後の二人が続くと見ていた部員たちが大きな拍手を送った。

「勝負」

 主審の声が響くとYが遠い間合いから小手を狙った。それは単発ではなく次に行くのが本命の連続技である。長男が小手抜き面を打とうと振りかぶった瞬間、Yの竹刀は面ではなく胴に向かった。尚樹の目にまともにメタリックの胴を捉えたシーンが飛び込んだ。鮮やかな快音が道場に響き渡り、審判はすぐに有効と認めた。

「二本目で止まったのが、潮目だったな」

 尚樹のところに来た長男にそう言った。Kには「間合い苦しませたけど、関東の剣道はそういう感じ」とコメントし、Yには「小手・胴はすばらしかった」と告げた。Uの弟は二年生のレギュラーメンバー二人をそれぞれ面と小手、面と胴で破っていた。

※ 短いけど これで終わらせていただきます

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帰郷(3)

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 一時間くらいで二十人近く相手して休憩になった。とりあえず練習試合をさせてもらうことになって三年生3人が審判、長男の相手は新キャプテンのKと尚樹に最初に掛かったYの二人である。そのあとにも二組試合が組まれた。それは一年で一番強いUと二年生の二人である。審判の他、部員の大半は面を外したまま見学となった。

 上空からジェット機の音が降ってきた。福岡空港に向かう便ならば下関の北から響灘に出るコースである。つい四時間ほど前にはA空輸の777から関門海峡を見下ろしたところだった。福岡空港に降りると新幹線の休日特別割引を使って小倉に移動し、そこからN中までタクシーだった。この飛行機はたぶん長崎か上海に向かうのだろうと思った。

「はじめ」

 u兄の号令でkとの試合が始まった。双子でいったいどちらが主審なのかは不明である。審判も垂れと胴だけ着けた状態だった。長男はぐいぐい間合いに入った。それは吸収と東京の違いを顕著に表していた。Kは左に回りこんでやむなく鍔迫り合いに持ち込む対応に出た。鍔迫り合いになるかどうかというところでKは引き面を放った。長男がブロックして竹刀のはじける音が響いた。

 間合いを明けたKは両腕を下げるとすぐに面を打って出た。再び間を詰めに前進していた長男は胴を抜いてすれ違った。Kの着けた黒胴が甲高い音をたて、審判も一斉に旗を上げた。見ていた者がどよめいた。一番強い者が抜き胴を奪われるのは驚きだったのかなと尚樹は思った。そして自分に似てこの技が得意ということをS学園の先生から聞いていたが、初めて実感した。

「二本目」

 審判の号令でkは時計回りに旋回した。長男はまた間合いを狭めて相手の打つ機会を封じた。このまま一本勝ちにする戦略もあるが、もう一本取る機会を狙うべきと思いながら見ていた。Kは小手・面で打ちかかり、鍔迫り合いになると様子を見てすっと間を空けた。航行では「十秒ルール」が適用されるようになり、それも意識してのようだった。長男も間は詰めなかった。ここでベタベタくっつくのは一番いやな剣風である。 

 長男が間合いを一気に詰めた途端、Kは左わき腹だけが空く体勢になった。長男がそこに切り込んで鈍い音が響いた。審判の旗はやはり動かず、Kが放った引き面も有効にならなかった。kの引き面に対しては拍手があった。そのあと互いに面に初めて出て竹刀同士のぶつかる音がして「時間切れ」となった。終わりの礼をすると次は待機していたYが進み出た。

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2016年7月10日 (日)

帰郷(2)

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 切り返しからの基本稽古は見るだけである。一年生で中学から始めた約十人は七夕の頃から面をかぶったが、別のグループだった。一年生の経験者八人、二年生二十二人が回るところに長男が加わり、三年生三人も面をかぶったので偶数になった。号令をかける新キャプテンのKは市民大会の中一の部で優勝し、前のチームでもレギュラーに入っていた。

 普通の切り返しに続いて左右の胴を打つ切り返しも行った。これはS学園ではやっていなかった。正面打ち、小手・面打ち、鍔競り合いからの引き技、面に対する技、小手に対する技をやるとキャプテンが基本の終わりを告げた。面を着け始めた尚樹に最初に来たのは二年生の真ん中あたりにいたYである。長男はその後ろだが、彼の相手をするのはゴールデンウィークの時以来である。尚樹自身、土曜日だけの稽古は夜であり、弟の道場でとなっていた。

 最初に切り返しをさせてもらって二分程度様子をみることにした。最初の面を受け止めるとすかさず引き胴を浴びた。へそ下までしっかり切り裂けてから間を空け、剣先が下がったままという形ではなかった。技量的にはまぁまぁと見て次の面攻撃に対しては抜き胴で応じた。尚樹にとってこれはずっと得意技であるが、足の動きが落ちていることを痛感した。それから一呼吸おくために剣道経験をたずねると中学からという返事である。それ以前に何かやっていたか尋ねるとサッカーだった。グランドの狭いN中では運動部は剣道に限られていた。

「基本はしっかりしているから後は業の幅を広げてね。例えば、小手・面に混ぜて小手・胴というのもある。じゃあラスト一本勝負で」

 Yに面を打たせて胴に返すのを二回やっていたので、今度は尚樹のほうから面攻撃をしかけてみた。九州では遠い間合いからと言われていたが、東日本では間を詰めてであり、年を取ってくるとそちらのほうが合理的と思っていた。剣先が触れ合ったところから一歩入ってもYに動じた様子はなかった。面に飛んでみた瞬間、右わき腹から左腰にかけて鋭い衝撃が走った。尚樹は「いいところだ」と言って終わりにした。

 長男には打ち込み稽古のあと、一本勝負でわざと左わき腹を開けてみた。切り込んできたのでその意図はわかるようになったが、まだ一本になるか微妙だった。そのまま面に飛んでみたら小手を食らった。そのあとは同じように元に絶つ三年生のほうに行かせた。

 それから女子部員、そしてUの末っ子となった。最初は面返し胴を試みたが、面の勢いに食い込まれてしまった。これは並みの中一ではないと感じた。一本勝負でも面に出たのではなく、少し手元が上がったところを胴に飛び込まれた。こんなことになったのも東京ではなかった。

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帰郷

「下り坂」の一期上の人をちょっとだけ・・・

 夏は盛りを過ぎたとはいえ、大気は燃えるように暑かった。タクシーを降りた尚樹は自分と長男の件道具をトランクから出した。国土交通省に勤務する尚樹は盆休み明けの次の週末に故郷の下関に戻り、小倉にある母校のN中学を訪ねた。創立四年目のN中に入った尚樹は鹿児島のL高校に逃亡した。上学生のときから続けていた剣道は、中学、高校、そしてT大学でも続け、昭和六十三年に入った運輸省でも続けた。三段までは行ったが、社会人になってからは商談審査は受けてなかった。

 阪神大震災が起きる二ヶ月前に生まれた長男は小学校に入ってから同情に通わせた。二つ下の弟も一緒に入門して「兄よりも弟のほうが強い」と言われる状態である。長男は剣道も学業もよいS学園に入った。夏休みには海外語学研修に参加することも可能だが、それには参加せずに剣道部の活動に専念していた。弟は日本武道館での全国練成大会に出てベスト十六に入った。

 卒業してから母校を訪ねたのは、大学一年のとき、男女共学になった平成十一年である。その年に初めて全国大会出場を果たしたが、尚樹たちの時代は相手がN中だとわかると「ラッキー♪♪♪」という状態だった。三年生は引退してしまったが、新人戦の時には県大会で優勝し、夏の大会は惜しくも次点に泣いた。新しいチームになって盆があけてすぐの十七日の昇段審査では全員が初段に合格したそうである。これも尚樹たちの時代では考えにくかった。

 二階の職員室に立ち寄ったが、今もいる先生は体育のO先生だけである。一期下のOが夏休み前に来たことも知らされた。A空輸にいる彼は研究所に出向し、航空関係の論文を書いていることは尚樹も把握していた。武道場は四階建ての校舎の一番上に増築された。それは尚樹が三年生になったときである。

 長男は防具置き場で、尚樹は教官室で着替えた。防具置き場が通常の着替え場所であるが、共学化されてから女子用のスペースが設けられた。尚樹のゼッケンは「運輸省」で長男はS学園、尚樹はワインカラーの胴に家紋を入れたものだが、長男は小学校時代から使っているメタリックの胴である。初段の審査は十月だが、そのときもこれで押し通そうということにしていた。

 二年生が前で一年生は後ろ左から男そして女子という並び方だった。新キャプテンの前には引退した三年生が三人だけ座った。Uの双子で、一番上は前に訪ねたときに主力メンバーだったし、一年生にも末っ子がいてこの四人で一番強いのは末っ子だそうである。長男は二年女子の次の位置に座った。

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2016年6月19日 (日)

下り坂(204)

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 役員になってからの昼食は「ビジネスランチ」ということで社長をはじめとする取締役四人でとなったが、社長が出張なので三人でだったた。役員会議室でターミナルビルの食堂から取り寄せた日替わり定職が定番である。職場体験の中学生は弁当を持ってきていて応接室で食べさせた。

「手荷物の作業も体験させましたが、あとは羽田への折り返し便だけですかねぇ」

 午後一時に羽田に向かう便が出ると次は午後四時までなかった。

「コックピットに入らせるのは機長が席につくまでですよ」

「到着したら機内清掃員と一緒に入って、あっ祇園太鼓饅頭の運び込みはしてもらいましょうか」

 北九州出発便は七月はこのお菓子を出していた。今の時期はやはり冷たい飲み物の補充が中心である。

「それで待ち時間はどのように」

「客室乗務員の訓練は女子ならまぁ。やっぱりシミュレーターの訓練でしょう」

 路線拡大に伴って737のシミュレーターを一台、A空輸から譲渡してもらった。北九州を出発して羽田への通常着陸、そして羽田離陸時のトラブルによる緊急着陸の予定が入っていた。

「訓練受けるのは誰かね」

「サンダースです」

 米軍で空中給油機を操縦していたパイロットで、シミュレーターの副操縦士席にはA空輸から遺跡したパイロットが座った。六月に入社したばかりで、まずは737のシミュレーターで日本の空に慣れてもらうというところだった。最初は羽田・北九州・福岡・宇部への晴天時・夜間・悪天候と各フェーズでの着陸、そして緊急着陸として四空港の他に成田・中部・伊丹・関西・岡山・広島・松山・高松・高知・徳島・小牧基地・浜松基地・横田基地・厚木基地が加えられた。これらをクリアするといよいよ常務である。

「ブリーフィングの様子はどうでしょうか」

「それは機内と重なる時間が多いですから」

 ランチが終わると哲也と運航担当がシミュレーターのある部屋に彼を連れて行った。時計の針はまだ午後一時前である。

※ ここまでといたします

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