陽炎(27)
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研究所に入って五年目は神戸空港の建設が決まって関西の航空貨物がどうなるかというテーマが近畿運輸局が来た。たぶん伊丹・関西・神戸の三つの役割分担なのだろうと思った。私にとっては関西の仕事はありがたく、金曜や月曜ならば大阪に滞在するという手もあった。
忘年会とかで恋人はいるのかというような話は出て、私は大阪との遠距離をしているとほのめかした。大学に移ることを打ち明けるタイミングは冬のボーナスのあと、就業規則でも三ヶ月前というようになっていた。四年目の三月には組合の総会の議長も引き受けたが、役員になるのは辞退したし、まだ諸先輩が委員長をやるところである。主任研究員は管理職になるが、研究員・研究主査までは組合員だった。
北九州空港の仕事に加えて福岡県の仕事も加わった。これは東九州道と西九州道が物流に与える影響というものである。物流学会で発表した鉄道貨物は学会誌に掲載してもらうことができ、研究所の季刊誌には夏の号となった。こちらには岡山の伯備線から山陰を通り山口県の美祢線というルートも検討可能と記した。、美祢はかつて石灰石輸送で日本一だった時期があり、インフラとしては使えそうだが、単線でディーゼルというのが難点である。
六月に大阪と福岡の仕事が連続した。実家に泊まって先方といつ結納を交わすのかという話をし、住む場所の候補は堺市の北部という方向にした。O産業大学は阪急京都線の南茨木に近く、地下鉄御堂筋と阪急乗り継ぎが第一候補である。福岡には山陽新幹線で移動した。世界最速の300キロ走行をする「のぞみ」は今までの車両と違って小型ジェット機に乗り込むような丸みを帯びた車体だった。
阪神大震災から二年過ぎてまだ被災地に配慮して最高速度は今までの「のぞみ」と同じ270キロだったが、加古川を過ぎるあたりから加速して姫路城が見える手前で「ただいま300キロ」ですという案内が通路の端のドア上にある電光表示板に出た。背中をぐいぐい押されるような感覚は新鮮だった。
300キロ走行は岡山を出たあと、広島と小倉の間は徳山の石油コンビナート付近の急カーブ以外、小倉と博多の間で行われた。地下鉄で福岡県庁に行って主任研究員と合流し、調査委託元の商工労働部と打ち合わせをした。こちらも二年越しのいう話になったが、次年度は誰に引き継ぐことになるかなと心の中で思った。
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