陽炎(25)
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北九州の仕事は二年越しのテーマとなるので、私には大学に移るまでの最後のプメジェクトという形である。N社に提案した「航空券直接販売への対応」というテーマは採用が決まり、私がチームリーダー、それを一期下になる情報システム部の者がサブリーダーとして取り組むことになった。
入社四年目となってリーダーを任されるケースはちょくちょく出ているが、同期では深井がおなじくN社国際事業部の「中国のコンテナ輸送」というテーマでリーダーとなった。彼は前年に上海からウルムチまでの鉄道沿線を訪ねる出張をしており、中国通として実績を積み始めていた。
峰岸はリーダーこそないが、同期の中ではもっとも多くのテーマに関わっていた。それが残業と休日出勤の多さにもつながっているという問題はあったが 彼は新潟県からの依頼でシベリア鉄道の調査をすることとなった。七月下旬から八月上旬にかけ、ウラジオストック・ハバロフスク・イルクーツク・ノボシビルスク・モスクワと回った。鉄道マニアの彼にとってはうってつけの出張だが、ハバロフスク・イルクーツク以外は空路というのが少し不満なようだった。
帰国した彼の土産写真は鉄道設備や街の様子であるが、物流技術部の専門家は「これでよく事故が起きないな」とコメントした。それは素人目にも貧弱・老朽化が明らかだった。それでも街で移したという五歳前後の女の子は「カバンに入れて連れ去りたくなるような」可愛さである これらの写真は季刊誌の海外トピックスで取り上げてもらうことが決まった。
盆の帰省では見合いをした。相手は堺市役所に勤務していて私と同じ高校の二期下である。私は高校時代、考古学と鉄道研究を掛け持ちしていたが、彼女はブラスバンド部だった。大学はT学院大学で専門は英文だった。とりあえずは物流学会が終わったときにまた会うということにした。
このころから交通の関係では航空業界の規制緩和が俎上に上っていた。割引運賃の制度が変わって最大で50%引きまで可能となった。ただし二ヶ月前までに予定を固めないと使えないので、ビジネス利用には向かなかった。一定の幅で運賃を自由に設定できる精度は、羽田・福岡で片道2万5350円のところが2万3000円から2万7400円というものになり、値下げの期待がもてないと指摘があった。これに対して1万3700円で運航するという目標を掲げて手を上げた会社が出てきた。
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