« 日本の食文化 全六巻 吉川弘文館 | トップページ | 大阪万博のときの写真を »

2019年1月 4日 (金)

陽炎(21)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 大阪の夜景が窓の下に広がった。歳が明け二月に入って従業員および家族へのヒアリング実施となった。三宮のホテルの会議室を借りて午前に従業員六人、午後は家族四人に座談会形式で話しを聞くというものである。前日の夜に神戸入りするが、また午後六時に羽田を出るJ航空の747に乗った。

 伊丹の空港から歩いて阪急宝塚線の蛍池に向かい、十三で神戸線の特急に乗り換えた。やはり窓の外は真っ暗になっていてわからなかった。主任研究員は福岡から神戸に来て合流である。終わったあとは広島に向かうということだった。いろいろなテーマを抱えて年度末が近くなるとスケジュールの調整が大変である。

 従業員は神戸支店二人、神戸航空支店、宅配便の営業所、姫路支店、神戸海運支店からである。発生当時はみな自宅にいて勤務中という人はいなかった。姫路支店の人は神戸市内から通勤していて電車が止まったために出社できず、あとは避難所に行ったり、なんとか職場まで足を運んだというところである。避難所にいてボランティアをしていた人は「死んだのではないか」と思われた

 業務としては荷主との連絡、そして救援物資の輸送というところだった。避難所のボランティアでは余震で壊れそうな住宅から非難するのを拒む老人がいて「移動しないと死にますよ」「いやじゃ、わしはこの家と一緒に死ぬんじゃぁ」というのを身の回り品と一緒に連れ出したという話が印象に残った。

 災害によって通勤も徒歩で片道二時間というような状態になって「体力を普段からつけておくことが大事」という意見も出た。私自身は発生から三ヶ月たって秋葉原から小岩の家まで二つのルートを歩いてみたが、どちらも三時間かかった。勤務中なら帰宅、自宅にいるときは出社が問題である。

 昼食のあと家族の話を聞いた。全員専業主婦である。終わると主任研究員と二人で神戸支店にあいさつに行き、主任研究員は新神戸駅に私はポートアイランドから高速船で関空に向かうため別々にタクシーに乗った。とりあえず精算の差額はコラム記事の原稿料でまかなうことは可能である。

 ポートアイランドの道はデコボコだった。これが液状化の影響だと運転手は言った。桟橋について関西空港行きのジェットファイルに乗った。最高時速は80キロだが、客室の前にあるスピード表示は72で止まった。一時間で関西空港の桟橋に着くとバスでターミナルビルに移動である。

|

« 日本の食文化 全六巻 吉川弘文館 | トップページ | 大阪万博のときの写真を »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本の食文化 全六巻 吉川弘文館 | トップページ | 大阪万博のときの写真を »