陽炎(30)
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大学の件は研究所のOBに打ち明けようかと思ったが、やはり所内が先かなと思い直した。毎年のように学会で報告している私の行動は転身した先輩たちと同じ道を歩んでいるのはもう感づかれているかもしれなかった。R経済大学に二人移ったあとは、国際物流専門の人が定年で群馬県の大学に移った。
帰宅すると郵便受けにO産業大学からの封筒が入っていた。シラバス(授業計画書)を作るようにという指示で、物流産業論と三年生のゼミに加えて一・二年生のゼミも担当することになっていた。参考までに他の先生のシラバスが同封されていたので、参考にすることとした。
A空輸が毎月だしている学術誌の編集部から交通学会での発表を元に寄稿して欲しいという依頼もあった。研究所を退職する予定の三月に刊行されるものである。流通関係の雑誌が出しているコラム記事は十二月号で終了ということが告げられた。誰に引き継ごうかと思っていた私は半ばほっとした。
北九州市の仕事で小倉に行って、委員会の会場のホテルで昼食をするとき、主任研究員に「大阪の大学に移る」という旨を打ち明けた。主任研究員はさほど驚いた様子もなく「じゃあ、関西の仕事で何かやれたら」と応じた。研究所の出身は奈良のほか神戸にもいた。
主任研究員は委員会が終わると佐賀県に向かった。私は北九州空港から帰ることにして小倉から日豊線の下曽根まで各駅停車に乗り、駅からバスで空港にたどり着いた。MD87は相変わらずガラガラで左窓側に座った私の隣はいなかった。出発は午後五時半で売店で弁当を買って乗り込んだ。
今度も内陸に向かっての離陸だった。旋回が始まると窓に顔を寄せた。八幡の製鉄所のあるエリアも目に入り、関門海峡の沿岸に沿って立ち並ぶ工場、海峡の向こうの下関、そして小倉の都心部が目に入った。委員会をやったホテルは小倉駅の北側にひときわ高くそびえるLホテルである。
山を跳び越すと新門司のフェリーターミナルが目に入った。ここから神戸や泉大津、さらに徳島経由で東京とを結ぶフェリーが出ていた。新しく作られている空港の敷地は飛行機の真下になっているので見ることはできなかった。山口県の宇部空港も見え、狭いエリアで空港が林立するなと思った。
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