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2018年12月15日 (土)

ラスト昭和

また新しいものを・・・ 昭和最後の大学生の就職活動というのが 

 生駒山のトンネルを抜けたなんば行き急行は、大阪平野を見下ろしながら坂を下った。ドア際に立った敦は遠くに見える六甲山地に目をやった。秋になって空が透き通るようになり、遠くも見えやすくなった。

 奈良の県立高校を卒業した敦は、大阪市の南端にある公立大学の法学部に入った。三つ上の兄も同じ学部だった。兄と同じように小学生のときから剣道をやっていた敦は高校・大学もあとを追いかけるように続けた。兄は四年になって県庁を受けるための勉強に専念し、道具もゼッケンも敦が受け継いだ。

 三年の九月になって敦は新キャプテンに指名された。ずっと兄よりは強いと言われ続けていたが、全国大会に出るような選手にはなれなかった。大学一年の秋に三段まで行き、兄は三段のまま県庁職員となり、剣からは離れた。

 電車が鶴橋に到着すると大阪環状線に乗り換えた。国鉄から西日本旅客鉄道に名前が変わってオレンジ色の車両には白いマークが施された。天王寺から大阪、そして環状線を一周して奈良に向かう快速は白に朱色の帯を入れたものだが、鶴橋と天王寺は各駅に停まった。

 天王寺では二回目の乗り換えである。大学のある杉本町は天王寺寄りにしか改札口がないため、乗るときはいつも行き止まり式のホームの車止めがある側からである。水色に塗られた電車は鳳か日根野行きの普通電車しか乗れなかった。和歌山に向かう区間快速や和歌山の先に行く快速は杉本町に停まらなかった。快速は白に水色のラインの入ったタイプだが、区間快速は水色、鳳から先が普通となった。

 天王寺を出ると大阪環状線や奈良に向かう関西本線をまたいだ。右手に見えるT高校は在学生の出身校として最多だった。芥川賞作家の大先輩、開高健の母校でもあった。電機メーカーとして有名なS社の本社が池越しに見えたり、長居公園の最寄にある長居では快速を先に通すことがあった。杉本町も退避できる駅なのでそれは学生たちに不評だった。

 杉本町は入学したときは平屋の木造駅舎だったが、秋には二階建ての駅舎に建て替えられた。ホームと駅舎は跨線橋でつながれていた。それは新しくなっても同じである。改札口は二階に設けられた。一階には国鉄が経営多角化の一環としたハンバーガーショップがオープンしたが、地元商店街からは反対の声があって、駅のすぐ前に看板が出ていた。

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