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2018年12月17日 (月)

ラスト昭和(6)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 昭和63年が明けた。年末から家に段ボール箱入りの就職情報誌が届くようになっていた。それは兄の時もそうだった。分厚い会社情報に資料請求ハガキが添付され、興味を持った企業に送るというものであるが、それが一番最初の選考でもあると兄からアドバイスされた。とりあえず、話題となるビールを出したA社、関西エリアならばとK電力、JR各社、通学でなじんでいるK鉄道、H電鉄とN電鉄も関西に根ざしたところ、先輩の入ったM電器、食品では関西が基盤のG社、とにかく志望動機、学生時代に力を入れたことはどの会社も同じである。動機はそれぞれに合わせ、力を入れたことは剣道部と書いた。

 後期の試験が近づいてクラブがしばらくオフになるため、防具を大学から自宅に持ち帰る日の朝、阪和線の踏み切りで事故があって大学へは地下鉄で振り替えということになった。これは一年の秋に国鉄の分割・民営に反対するゲリラ事件でストップして以来の事態だった。天王寺で乗り換えた電車は三本目でようやく乗れた。教養部の端にある学生寮はヘルメット集団の巣窟ともなっていたが、ここの出入り口が地下鉄の駅からもっとも近かった。そこは警察が封鎖していて正門に回りこむ形となっていた。

 この日も電車は混雑し、乗れたのは二本目である。道具を家から大学に運ぶ日だったら大変だったなと改めて感じた。八両編成だった電車は中百舌鳥への延伸に伴って十両編成になった。万博に備えて作られた車両は冷房がなかったが、一気に冷房車に入れ替わった。

 あびこ駅は道路の下にあって、ホームは二本向かい合わせになっていた。中百舌鳥に向かうホームから地上に出ると上の道路を渡らなければならなかった。ホームの間は線路の下をくぐる通路で移動することもできるが、それは面倒なので道を渡った。

 木造平屋の市営住宅や新しい賃貸アパートの混在したエリアの中を抜け、関西本線と阪和線をつなぐ貨物線を渡った。単線のレールは一年のときは昼間にコンテナを積んだ貨物列車が走るのが教養部の校舎からも見えたが、最近は通ることがなくなって赤錆が浮いていた。地下鉄車庫の跡はレールが外されて空き地状態、車庫と教養部の間の道を歩いて文型のキャンパスまで歩いた。

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