陽炎
また新しい作品を作りたくなりました
小岩駅の階段を上がっていると秋葉原方面に向かう電車の到着を知らせるブザーが鳴り出した。朝八時二十分を過ぎてラッシュのピークは過ぎつつあったが、ホームの上は通勤の客でいっぱいである。正面が黄色一色の一番古い車両が入ってきた。いつもは階段脇の少し狭いところを通って前に行くが、そのまま一番近いドアから乗り込んだ。
大阪で生まれ育った私は地元の私立大学の経済学部で大学院まで過ごした。父は府立大学の経済学部で経済政策を担当していて私も同じ道を考えた。交通経済の大家とされる先生のゼミに所属したが、博士まで行くか研究機関に籍を求めるか悩んだ末に物流最大手のN社のシンクタンクに入ることとなった。
N本体のような社員寮はなく、東京都の一番東になる江戸川区の駅から歩いて十分の賃貸アパートに住むことにした。家賃は月七万近くで、給料の三分の一が飛ぶ生活である。まだ結婚は頭になく、とにかく学会に研究論文を発表してどこかの大学に移れたらというのが希望だった。
隣の新小岩を出ると中川と荒川を渡った。二つの川にはさまれるように首都高速が走っていた。川の水面は堤防の外の地面よりも高く見えた。平井を出ると線路の北にはN社平井支店と倉庫があり、並走する貨物線が上を横切って亀戸である。貨物線は海のほうへと離れて行き、錦糸町に到着した。
ここでいつも快速線から多くの客が移ってきた。隣の両国で、快速は地下に下りて東京駅へと向かった。両国は高架が秋葉原や新宿に向かう形だが、北には行き止まりのホームがあって、風格のある駅舎が建っていた。隅田川を渡って浅草橋、そして秋葉原に滑り込んだ。約11キロを通常は十五分程度で走るが、ラッシュ時は三十分近くかかった。
秋葉原駅は黄色い電車の総武各駅停車と山手・京浜東北がクロスする形になっていた。山手・京浜東北が南北に走り、その上を総武各駅が東西であ。職場には下のホームに下りてさらに階段を下りなければならなかった。駅の北側には広場があり、西に少し歩くと電気街のある中央通である。
中央通に面した黒い八階建てのN本社ビルまでは駅から歩いて三分だった。研究所はビルの四階にあり、通用口を入ると階段で上がった。配属された経済研究部はフロアの東、中央通に面したところにあった。五つの研究室があって、スタッフは総勢二十五人である。室長の下に主任研究員が二人、主査一人、研究員は二年先輩と私の六人という所帯だった。
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