陽炎(8)
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二年目になって福岡市の新型高速貨物船に加えて関東運輸局の「内航貨物輸送システム」とメタノール自動車普及が加わった。関東運輸局は横浜にあり、室長は横浜市南部に住んでいるのでこれは室長や他の研究室との共同作業となった。メタノールのほうは通産省の外郭団体からの委託で、峰岸は一年目から関わっていた。初年度は関東、二年目は関西、三年目が中京エリアで、私が関わるのは三年目からである。
峰岸はまだ少数派の携帯電話保持者だった。彼が出先にいるときにメタノールの関係から「至急連絡が欲しい」と言われて彼に電話をしたら「トイレットペーパーをちぎる音」や「水を流す音」が聞こえたことがあった。彼の形態電話番号は部内だけの秘密だった。そうしないと電話に追い回されるというのが彼への配慮である。携帯電話よりも安い「パーソナルハンディホン」なるものの実験は「トラフィックオペレーション」で経験した。それを持って小走りしながら通じるかどうかをやらされたが、私の足が遅いので時速20キロは超えなかった。それを超えるとつながりにくくなるというのがNTTの研究者の話である。
他には海上コンテナの大型化に伴う車高制限緩和についてトラック教会から受けた調査の手伝いもした。これは委員会の録音テープを議事録に落とすというものである。とにかくいろいろな分野を手がけて知識は少しずつ広がった。先輩の研究員からある雑誌のコラムを引き継ぐように言われて、とりあえず「整備新幹線」「トラックから海運へのシフト」「航空貨物施設」で書くネタを得られた。7777円の原稿料は源泉がひかれて7000円になったが、少し生活の足しにはなった。
夏休みに大阪に戻ったとき、父の計らいでO産業大学の新しい学部の準備をしている教授に引き合わしてもらった。物流に関する科目を作る予定もあって、現在やっているイギリスの鉄道貨物研究は国際物流にも関連するものだった。新学部は平成八年に始まり、三年生の科目が始まる平成十年から移れるという見通しである。それまでに研究論文をあと二本は書いておこうということになった。十月の物流学会は神奈川県、交通学会は京都のD大学、あと関東部会は研究所から歩いて十五分のC会館でやっていた。とりあえずは九月にC会館で「整備新幹線と貨物」の報告である。
十月からは運輸省による「長期的展望にたった鉄道貨物の課題」と佐賀県のトラック組合からの委託調査にも関わることとなった。運輸省の建物に入って夜十時近くまで打ち合わせとなったが、外に出ると霞ヶ関一帯の明かりがまだ煌煌としていた。丸の内の旧国鉄本社ビルにも入った。ここは貨物会社が入っているが、近いうちに移転するそうである。理由は旧国鉄本社ビルの解体処分の方針だった。
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