陽炎(2)
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出社するとまず出勤簿に判子を押した。それから研究部スタッフの予定が書かれた黒板を確認に行った。休みを取っていたり出張や出先立ち寄りなどがわかるようになっていて電話応対の参考にしたし、誰がどんなプロジェクトに関わっているのかも少しずつわかるようになった。
自宅の水道やトイレットペーパーを節約したいこともあって排便は職場に来てからだった。それはもう高校以来の生活リズムである。本社ビルは昭和三十年に作られ、和式便器の水が落下する部分は水溜りではなく、穴になっていた。トイレの前は職場の掲示板になっていて会社や組合からの通知が貼られていた。
最初の半月は人事部による研修で、研究所の業務、さらに本社と合同のビジネスマナーや現場体験だった。現場は京葉線潮見に近い宅配便のセンターで、仕分け作業と配達を経験した。そして研究所の配属先に来たが、新年度に切り替わったばかりで、これといった仕事はまだなかった。
修士論文は「国鉄改革における貨物輸送の転換」というタイトルで、これが研究所採用の決め手となった。ちなみに学部の卒論は「国鉄改革における地方交通線」である。整備新幹線の問題にも興味が出て、研究所が年四回出している季刊雑誌に書いてみたいと申し出た。夏は製作中、秋も編集方針があるので、出せるのは冬号というところである。
学会は交通だけだったが、新たに物流にも入ることになった。研究所もこれを手伝っているので、秋の全国大会、年四回の関東部会には参加というところである。さらに室長が加わっているのが「トラフィック・オペレーションリサーチ研究会」で、旧国鉄を引き継いだ東日本、Nを代表して研究所、JAL、道路公団、NTT、日本郵船が持ち回りで研究報告する会のメンバーとなった。
昼休みは地下三階の写真食堂で昼食をして、北は上野の西郷隆盛の銅像、西はかんだ明神、南は交通博物館まで散歩した。南にはチケットショップがあり、先輩の使いでテレホンカードや鉄道のプレペイドカードを買いに行くこともあった。主任研究員の一人は駅の券売機で間違ってテレホンカードを入れた失敗から、電車の写真のテレホンカードはタブーと言った。
六時過ぎには退社して秋葉原駅に向かい、駅ビルのデパートが開いている関係で、今度は総武線のホームまで一気に上がった。デパートは三階建てでその上がホームである。小岩に着くと北口の前にあるスーパーは七時弊店なので、惣菜や弁当には値下げシールが貼られていた。これも生活には手助けとなった。
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