下り坂(190)
もう少し進めることとしました
前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m
早春の周防灘は昇ったばかりの朝日を浴びていた。電気自動車で連絡橋を渡っていた哲也は滑走路の南端に向かう自社の機体に目をやった。東京に向かう二番機、搭乗率はおおむね八割前後をキープしていた。ターミナルビル前の広大な駐車場は半分程度埋まった状態である。
IDカードをかざして事務棟に入ると手洗いに足を運んだ。便通があるのは出社してからというのはずっと変わらなかった。東京と違ってオール洋式にはなっておらず、二つのうち一つは昔ながらのスクワットだった。それは便の状態を確認するのには好都合である。下痢でも便秘でもなく、快便なのは胃腸が強いということの証だった。
下を全部脱いでドアの金具にかけてしゃがみこんだ。最近は面をかぶることも少なくなって、このような動作、特に立ち上がるのが難儀するようになっていた。水溜りの後ろから前まで一直線に横たわったものは竹刀の柄と同じ、湯気が立ち上った。ペーパーを引き出していると誰かが横に入った。
両膝に手をあててなんとか立ち上がり、下を履いていると隣から「ボチャッ」という水のはねる音が聞こえた。ずっしりした塊なんだなと思いながら水を流し、洗面台で手を洗っていると出てきたのは元P電気のラグビー部で前年の秋に転職してきたばかりのカウンター係りの者が出てきた。ポジションはフォワードで体重100キロを越える巨漢だった。
北九州・福岡・山口宇部・羽田は自社のチェックインカウンターがあったが、対馬、五島、宮崎、伊丹、小松はA空輸のカウンターを間借りしていた。事業拡大という観点からはいずれは各地で自社のカウンターということにしたいが、A空輸ブランドの重みを知れば知るほど依存しておくのが無難ということもあった。
東京オリンピックまで四ヶ月となり、北九州でも外国のチームによる合宿が行われることとなった。オリンピック特需にのっかっているうちはいいが「宴の後」にどうするのかは考えておく必要が大である。A空輸の380は羽田・ハワイを飛び続けているが、ピーク期を除くと持て余し気味になっていた。
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