下り坂(169)
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初夏とはいえ、もう夏本番の暑さが東京を覆っていた。哲也は五十歳になった。四月に研究所から持ち株会社の広報担当部長に異動した。グループ全体のPRというのが職務である。キャンペーンに関しては、就任早々に熊本で地震が発生したことで自粛となった。九州新幹線の被災で、大阪と熊本・鹿児島の輸送力増強、福岡・鹿児島の臨時便が急遽作られたが、新幹線が意外に早く復活したのには驚いた。
区民大会にはとりあえずエントリーした。三十歳以上の部は十八人、哲也は最年長になってしまった。子供の数が減っているのは深刻で、小学生は三年と余念、五年と六年をひとくくり、これが中学生よりも少なかった。中学生の場合は学年ではなく、経験者と初心者を分ける形で、中二で段があるかないかが分かれ目だった。
「岡部先生、おひさしぶりです」
哲也に声をかけたのはMと同学年だったKである。高校では剣道から離れて一年前に娘が入門したので復帰したということだった。入門した場所は元とは少しだけ離れていた。Mのことは話さなかったが、彼は区の職員になっていて、年上女房だそうである。娘はまだ防具をつける段階ではなく、父の試合を見に来ていた。彼も昨秋に三十歳となったので哲也と同じところである。しかも一試合多くやって二試合目で哲也と戦うということになっていた。初戦の相手は四十歳を過ぎてこちらも剣道を再開して四段チャレンジ中である。Kは中三で二段を取った状態で、今年三段挑戦ということだった。
会場には熊本地震への募金箱が設置され、開会式でも黙祷がささげられた。会長は「剣道ができることの幸せ」を強調した。そして小中学生の試合から始まった。哲也も小学三・四年のコートで副審を務めるように頼まれた。中学生以上は五段というのが厳格に守られたが、小学生については三段以上であれば副審を務めてもよいということに変わった。審判の講習は称号を得るための必須であり、三段から受けられるようになっていた。もっとも哲也は十年以上講習には出ていなかった。
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