下り坂(181)
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夏の激しい日差しが小倉の街に降り注いでいる。土曜日だが、哲也は午前のみ職場に出ていた。上は半そでシャツで下はグレーのスラックス、ノーネクタイである。車は中古でN社の青い電気自動車を手に入れた。親と同居という形で家には充電できる設備がついていた。空港まで毎日往復で15キロ走るがそれで十分だった。
国道十号を走り、空港への連絡道路に入った。開港から十二年たっても臨空工業団地は空き地が目立つままである。後部座席には防具と竹刀の袋を積んでいた。午後三時からK高の玉竜壮行稽古があるからである。ゼッケンはK高のときのものに差し替えた。そのままでも連盟の稽古に顔を出していた。
連絡橋を渡ってたーもなるビルの前に回りこんだ。空港利用者の駐車場はビルに近い部分はやはり満車である。バス・タクシー乗り場の脇から空港関係者用駐車場に入った。駐車場は普段の半分の入りである。までまでガソリン車が中心で、ハイブリッドが少し、電気は哲也だけだった。
オフィスには広報担当のスタッフと運行・整備の関係で五人ほど、取締役は不在で、執行役員も哲也のみである。非常時があれば呼集がかかるが、社長は自宅が空港から十キロの住宅地、取締役も小倉の周辺である。山口と羽田の六往復はすべてA空輸から移管され、残る佐賀空港も秋からと決まった。それだけ緊急となる可能性は増していた。
経営企画としてはウラジオストックへのチャーターが課題になっていた。運航は向こうのエアラインで、スホーイ100というMRJよりも少し大きな機体が使われた。ウラジオストックに三日間、シベリア鉄道でハバロフスクに行く六日間コース、ウラジオからサンクトペテルブルクに飛び、モスクワも見て戻るこれも六日間のコースが設定された。
ランチはターミナルビルの食堂で済ませた。窓側の席は一般客で、関係者なので壁際で日替わりの豚肉のピカタを食べた。自社の黄色い737とJ航空の737が並び、貨物エリアにはN航空の747貨物専用機がいた。デッキではそれらにカメラを向ける人が点在したが、ロシアの飛行機は彩りを添えるはずである。
食後のコーヒーを済ませると、哲也はK高に向かうことにした。さすがに市街地壮行は神経を使うので、小倉東インターのところから都市高速に乗って大手町で下りた。ちょうど小倉祇園が始まっていて、小倉城のところでは競演の真っ盛りである。ターミナルビルにも祇園太鼓の飾りがあった。
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