下り坂(180)
前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m
モノレールで浜松町までは中田と一緒だった。彼の子供はN大学の理工学部に入ったそうである。そして太陽電池飛行機の製作に取り組んでいた。
「なんだかみんな飛行機にかかわりができているねぇ」
哲也がそういうと中田は「確かに」と応じた。
「正月には小倉に帰ったのか」
「うん、福岡経由の777で」
哲也は380は好きにはなれなかった。ただでかいだけ・・・それだけである。
「そろそろ定年後のこと考えてるか」
「東京を引き払うと思う。エーサクは」
「俺も東京にずっといるのがいいのか迷いかけている」
モノレールは運河沿いに走っていた。高層住宅が立ち並んだ風景はずっと見慣れていたが、それが高齢者ばかりのオールドタウン化していることが話題になっていた。あまりにも高い住宅コスト、しかも自然災害のリスク大、都会にせよ田舎にせよ、住むということがいかに大変かである。
職場に戻ったのは午後四時である。机にメモがあって、担当役員質に来るようにという内容である。いったいどんな話なのかと哲也はそわそわしながら向かった。
「S航空の経営企画部に行ってもらいたい。君は北九州だったよね」
ついにきたかと哲也は思った。S航空には三月一日から、そして六月の株主総会で執行役員に選任するということだった。研究所時代からS航空の経営戦略にはタッチしていたので、見えない糸でつながっていたと悟った。
どこに住むのかというのは親の実家が残っているので、そこに入ることにして、通勤はマイカー、運転に慣れるまでどうするのかが問題だった。S航空の本社ビルは空港のターミナルビルの横にあって最初はバス通勤ということも考えられた。
ずっと世話になった世田谷の剣道連盟ともお別れである。新たに小倉の連盟に復帰するのは33年ぶりということになるが、いつ顔を出せるかは何ともいえなかった。
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