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2016年5月 5日 (木)

Our generation(58)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 次の勤務地は小倉、しかも「小倉駅の駅長を命ず」という辞令である。ヒロは少し当惑した。長崎で副駅長を経験したものの、博多駅に次ぐ格付けの駅のトップというのはまだ三十台半ばの自分には重荷ではないかと思った。国鉄時代でもこれだけ大きな駅を任されたケースはなかったそうである。八幡とかスペースワールドならともかく、新幹線やモノレールは別としても四本のホームに列車が八本入れる駅は博多とここだけである。

 住まいは駅から歩いて500m、かつては路面電車が走っていた通りに面した高層住宅の八階である。本当に街のど真ん中ですぐそばには百貨店、銀行、様々な商業施設が固まっていた。少し不便なのが病院と学校・幼稚園である。長男は赴任から二年目に小学校に入ることになって教育大の付属小にもぐりこむことができた。娘のほうは小倉の次の赴任地である。

 長男の剣道デビューは家から二キロ近く離れた柔剣道場の「少年剣道教室」だった。火曜と土曜の夜に稽古があり、幼稚園年長の終わりから妻が連れて行った。娘のほうはまだ見るだけであるが、一緒に始めさせてはと言われている状況である。ヒロ自身は駅長という職務の性質上、再び「剣の道はお休み」にした。会社の部のほうも同様である。

 それでも改札を通る防具や竹刀の袋を入れた中高生が行きかう様子はどうしても目に入った。一番多く感じるのは紺色の制服の学校である。改札を出ると丸い天井の下にある広場を横切ってモノレールの改札のほうに向かっていた。そこは日豊線の城野からも近いが、ここでモノレールに乗り換えるというケースも多かった。

 リニアの開業によって東京往復きっぷは、リニア利用と非利用の二種類が作られた。従来の新幹線は東京・名古屋では各駅停車のみへと切り替えられた。従来の「のぞみ」は名古屋・博多に短縮されたが、十六両編成は変わらなかった。とはいうものの、リニアの利用は建設当初に比べて大きく下回り、東海道・山陽の十六両は十二両に減量すべきではないかという議論が東海・西日本の社内で起きていた。

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