白い闇(8)
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授業が始まって二週目にフィールドワークに参加した。指導教授は机の上よりも現地をというスタンスだった。大学院生は学部のゼミに混じる形になっていた。学部の三・四年生は合わせて21人、院生は3人である。木曜日の午後、正門脇からトラムに乗り込んだ。バスが黄色に赤帯なのに対してトラムは白一色、どちらも車体に広告を入れていた。
トラムは一両と二両の二種類があり、どちらも後ろ乗り、前降りである。昼間は四分おきに発車するが、O駅行きとS車庫行きが交互となっていた。私たちはS車庫に向かうことになった。そこはO駅から西に約15キロ、清掃工場や造船所のあるエリアである。トラムは幅143cmのレールと車体幅は同じで、窓に背中を向けて座った。
O市のトラムは道路の真ん中ではなく、専用軌道のようである。自動車道をくぐった所でO駅への直進と両方向からS車庫方面に分岐するT字路があった。この北側は警察署と裁判所という司法エリアである。川を渡って意図「これが最初にLシティへの線路だった橋」と言った学生がいた。O高等中学の出身で仲間から「乗り物博士」と呼ばれている四年生である。
橋を渡ってモノレールの下をくぐって陶磁器工場の前に止まると「博士」は、ここが昔O中央駅だったと言った。30年くらい使われたが、今のA駅が玄関口に変わり、しばらく陶磁器や紡績の積み出しに使われた後にトラムに切り替えられたそうである。トラムの停留所は平均で700m、バスは300mと「博士」は続けた。
専用軌道の北に四斜線の車道が連なった。B銀行O支店、鉄道工場の南門、О工科大学と変化した。南は陶磁器やエレクトロニクス関係の住宅が連なった。製鉄所の関係者が住んでいる集合住宅地を過ぎると専用軌道は西から本姓に向きを変えてY駅に近づいた。ここはО駅から10キロである。
О駅からは「国鉄」の線路の少し南、50mくらいを併走した。道路は南側に移った。次の電停の手前で道路が西南西に離れて行った時、「博士」は鉄道ができた最初の頃、炭鉱から石炭を運んでいた線路の跡だと言った。その路線は石炭を掘りつくしたために50年で廃止されたそうである。
S駅前から300m進むとS車庫で一同はここで下車した。それから駅のすぐ西の陸橋への階段を上がった。高さは8mほどで、バリアフリーでエレベーターがつけられた。指導教授は歩道の上で北西に見える清掃工場でゴミ発電をしていること、この工場が元は石炭の積み出し港であったことを説明した。清掃工場の向こうにはガラス瓶やペットボトルをリサイクルする工場もあった。そしてS駅の北には造船所があり、二つ並んだ300m用ドックで原子力空母が喫水下のペンキ塗り替えのメンテナンスを受けている様子も見た。
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