下り坂(168)
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N大付属を出た時には外はもう暗くなっていた。哲也は両国駅から秋葉原に向かう電車に乗って行きと同じように新橋に向かった。通勤の定期はずっとО電鉄の豪徳寺から地下鉄の新橋のままである。総合研究所での役職は主任研究員で、年度が替わってから物流の関係に変わった。
十二月には再びオーストラリアへの路線が復活し、あとはアフリカや南米だなと思ったが、実現は不透明である。初期トラブルにさいなまれた787は新路線のブリュッセルやシドニーに投入され、羽田と福岡でも乗客の少ない時間帯に入れられていた。もちろん輸送力が一番大きいのは777である。
貨物専門の子会社n航空には747があり、モスクワを拠点にした貨物専用エアラインは成田に747で乗り入れていた。哲也のところでは世界のエアカーゴの流れの分析をテーマにしていた。「環太平洋パートナーシップ」でどのように変わるかという論稿もいくつか書いたりした。
夕食は豪徳寺駅前の牛丼屋で済ませた。夜も稽古はあるのだが、十月に三段以下の審査が終わると中高生は急に少なくなった。大人も新しく入ってくる人はいるものの、哲也は少しずつ稽古が億劫になりだしていた。それは五十歳を目前にして衰えて行く自分への恐怖でもあった。
道具は家に置いて夜の稽古は見るだけにした。とりあえず四段に挑戦する三十代の公務員と形を合わせるのはやった。五段に挑戦しない理由を日曜日も仕事があるためということでごまかし続けた。次の審査はシンガポールへの出張が入っていて日曜の午前に羽田から出発する予定である。
「それにしてもお忙しいんですね」
形を終えてから相手が哲也に言った。
「週に四回くらい飛行機で日帰り出張したこともありますよ。とりあえず着陸のほうはいけそうですね」
「ただ、離陸が・・・操縦かん引いても上がらないってところが」
彼もまた四段で苦戦していた。前年度に三回、そして今年度になって二回、五回目の挑戦である。小中学生の稽古が終わると、中学生の一部に高校生以上の計十人が七段の先生二人に掛かるか互いに稽古という形になった。先生二人の他には五段を持つ消防士が元に立った。
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