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2015年6月 2日 (火)

下り坂(165)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 バス停に行くと雨が降り出した。哲也は庇の下に入った。やって来たのは93番である。車内は空いていた。哲也は交通系カードを入り口の読み取り機に押し当てた。JR東日本のカードであることが、自分は東京の人間なんだなと感じさせた。この行動もビッグテータとして蓄積されるはずである。

 西小倉駅の前には40階建てのタワーマンションがあった。定年退職後に小倉へ戻るとしたらどこに住むのか、老人の一人住まいというのは賃貸ではは厳しく、まして都心では家賃が高すぎた。大学に近い北方や守恒あたりならどうなのかとも思った。モノレール沿線なので交通の便は最高である。

 バスは紫側を渡り、魚町を出てモノレールの高架をくぐった。小倉駅に入る電車は青と白の塗装だった。これが元々のカラーだったが、車体広告の入ったものや黄色や緑に塗り替えられたものばかりになっていた。山陽新幹線が開通して四十年、モノレールも開業してから三十年となった。

 バスを降りると哲也は折り畳み傘を開いた。実家までは200メートルほどであるが、雨はかなり強かった。周辺は小奇麗な家ばかりで、哲也の家は「昭和に作られた」数少ない家のひとつとなっていた。車庫に置かれた車はワインカラーのブルーバードシルフィがダイハツの赤茶色のタントに変わった。

門から玄関にかけては手すりがつき、トイレは段差に埋め込まれた和式に洋式の便座をすえつけたものから近づくと便座が開く洋式に改装され、横には手すりもつけられていた。浴室も改造され、まだまだこの家に住み続けるという両親の意思を感じた。哲也の部屋は二階で、高校を卒業したときと変わらないままである。

 妹夫婦はQ電力の鹿児島支店ということで、盆と正月だけ車でやって来た。ゴールデンウィークも鹿児島で過ごすのは原発が動かない影響で給与や賞与が少ないからである。いずれはこの家をどのようにするか話し合わねばならないなと哲也は思ったが、それがいつになるかは神にしか分からなかった。

 夕食は近くのスーパーで調達した寿司である。母に助手席に座ってもらって哲也がタントを動かした。エンジンキーがスタートボタンになったのと車体が小ぶり、運転席が高いというのがシルフィとの違いである。スーパーはカードポイントを高くする日だったので車でいっぱいだった。

 夕食後、ビールでほろ酔いした哲也は自分の部屋の押入れを開けて中の物を取り出した。剣道関係の賞状、アルバム、文庫本、どれもこれも東京では地震が起きたら焼失するかもしれないと思って小倉に残したものばかりである。でもこれが「自分の遺品」となってしまうんだな・・・とも思った。

 

 

 

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コメント

Y!ニュースで、
朝鮮出兵の前に、明国が、臣下として仕えて兵を引け、
という内容の国書が見つかったんだって。
その後の解説がもろ中国よりで意味不明なんたけど。

日本人の解釈だと。
中国の家臣になれなんて言われたら、日本人は戦争してでも抵抗するわな。なるほど、それで朝鮮出兵を秀吉が判断したのか。
となるんだけど。
なんでいつもチョコレートよりだったり、半島よりだったりするのかねえ。

九州は梅雨入りしましたね。

投稿: エリー | 2015年6月 2日 (火) 17時42分

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