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2013年12月21日 (土)

死して朽ちず

公職選挙法・地方自治法・国家公務員法など 突込みどころ満載かもしれませんが・・・そこのところはフィクションということで モジモジ(。_。*)))

 彼がY口県の副知事となったのは、平成二十二年の春だった。両親はU部の出身で、彼の本線地もU部であるが、育った場所は福岡市である。中学・高校は鹿児島にあるL学園、大学は東大法学部だった。ずっと剣道をやって中・高・大とキャプテンで四段を持っていた。平成元年に運輸省に入った彼は、航空局で地方空港の整備に関わり、U部空港の滑走路延長や米軍I国基地の民間共用に裏方として動いた。

 観光庁で「VISIT JAPAN」をやっていたのを「VISIT YAMAGUCHI」に切り換えてY口の副知事として働くようになったのはどういう経緯かわからないが、彼はH市出身の女の子と結婚し、二人の息子の一人をM倫小学校に「山村留学」させた。彼が副知事になったとき、長男は東京で剣道も進学実績も優れたS高校に在学したが、次男はY口市の中学に通っていた。

 彼は四年間の副知事生活のあと、国土交通省に戻る腹積もりだったのかもしれないが、あるいはどこかの自治体の首長、または大学ということも頭にあったかもしれなかった。中央政府はM主党政権になって「事業仕分け」という「お前の仕事は不要」とプライドをズタズタにされる出来事が起きていた。妻の遠縁にはJ民党の議員がいて、かつてH本総理に剣道の相手をしてメッタ打ちしたという武勇伝も彼がM主党がのさばる中央から「疎開」するという見方のひとつとなった。

 東日本大震災が起きて様々な被災地支援も彼は阪神大震災以降に研究した防災ヘリの活用といったノウハウで乗り切った。そして平成二十四年の夏には国土交通省出身の新しい知事が当選した。対立候補の「アンチ原子力」が当選すると彼の立場がどうなっていたかは分からない。しかし「維新という言葉を軽々に使うな」という県民の潜在意識もあって彼は平成二十六年春までの任期を全うすることが可能になった。

 新知事は選挙運動での疲れがあったのか、当選してすぐに入院し、一ヶ月近く県庁に現れなかった。その間、彼が職務代理者という形になって知事の職務の一部を代行した。全国大会に出る運動部の表敬訪問、そして観光に関係するものは彼がカバーをしていた。

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