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2013年12月23日 (月)

死して朽ちず〔3〕

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 入院から十一日目に知事が死去した。七月の豪雨対応で過労が蓄積していたのが原因だろうと医師団は発表した。彼が県議会との間でどういう話をしていたかは推測がついた。そして知事の葬儀が終わってから「選挙に出ます」と宣言した。選挙管理委員会は十一月二十四日を投票日に設定した。全国知事会議まで彼が職務を代行し、それから総務部長が代行という形である。

 彼が国土交通省に戻る道を断ったのはどういう心境だったのか取材を試みたものの、一切明かされなかった。長男はB衛医科大学に進み、次男はY高校の二年生だった。剣道部に入って彼もたまに保護者として恵子に参加していた。「副知事として支えた県政の継続のため」というのが彼のスローガンである。J民・K明はもちろん、M主も後押しするということで対立候補を出してくるのはK産党だけだった。

 JRのSL列車は運転できる区間のみ片道で走るということになった。津和野には機関車の向きを変える設備があるが、途中にはないため、往路のみSLが牽引し、帰りは後ろにつけたディーゼル機関車が先頭になって回送するというものだった。珍しい光景にもしかすると写真を撮ろうとする人が増えるかもしれないと期待された。列車は「がんばろうY口」と名づけられた。

 対立候補は一人、K産党の推薦で、元高校教師だった。年齢が65では亡くなった知事よりも年上で、若い候補者という触れ込みには太刀打ちできないように思えた。主張も「脱原発」「特定秘密法案反対」の二点だけで、「それだけがY口県政の問題なの」という突っ込みを入れたくなる状態である。彼が落選すれば総理の地元ということもあって「信任」が揺らぎかねないため、裏での支援体制が強力に築かれた。

 彼が最初に街頭演説したのは県内で有権者数の一番多いS市である。ここは総理の選挙区でもあった。団体への挨拶回りに細かな地区訪問、そしてネット選挙が解禁されたこともあってモバイル機器も活用するという三種類の戦いだった。下関での演説を終えた彼は国道百九十一号をH市へと向かい、途中響灘に突き出た島にまで渡った。対立候補はI国で米軍基地批判をしてからスタートしたようである。

 

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