その先へ飛ぶこと〔67〕
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年賀状は150枚来ていて、20枚は娘の関係、30枚が妻宛、15枚がトモヒロと妻の連名で、あとはトモヒロ宛だった。ゼミの教え子からは一通もなく、あるとしたら電子メールのほうだった。大学からの挨拶は理事長と学長の名になっていた。あとは学生委員会や広報委員会で一緒だった教員から三通である。
中学・高校時代からの年賀状のやり取りは四通で、熊本県庁・地元の信用金庫・N電気・家業の不動産屋を継いだ者だった。大学時代となると二通で一人はそのまま大学院に残って制御工学を教え、もう一人はH製作所に入って鉄道車両の製造に関わっていた。大学の指導教員との年賀状交換は二年前に先生が亡くなって途絶えた。
N通運研究所時代の関係では八通があった。うち四通は研究所を退職して大学教員に転出していた。亡くなった森岡教授に続いて千葉の大学に移った人も三年前に病没してしまった。研究所に居続けている四人は全て経済研究部である。四人とも担当部長や主任研究員という肩書きになっていた。
学会の関係では物流学会の吸収部会の人、そして交通学会で神戸や大阪の先生もいた。トモヒロは物流のほうは吸収部会の事務局で理事、交通も西日本エリアの理事になっていた。交通学会の九州部会を作るのはまだ難しかったが、関西エリアでは部会が盛んに行われていた。
関西部会の中心になっているのは大阪のC大学で、交通論の大家の先生が何人もいた。このクラスの大学ならばまだそれなりの難易度で、学生のレベルもN大学とは比べ物にならなかった。市立大学で非常勤をしたときの講義内容ならば学生にとっては気楽すぎるレベルだった。
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