その先へ飛ぶこと〔65〕
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正月の帰省は慌しかった。大晦日の昼前に博多駅から「さくら」に乗った。新大阪から鹿児島中央まで走る列車で、自由席は博多到着のときはいっぱいだったが、座ることはできた。新鳥栖と久留米がわずか五キロしか離れていないので列車はトップスピードに達する前にブレーキをかけた。
熊本駅の在来線との乗り換え通路は地下になっていた。昔からある駅舎は線路の東側で、新幹線は西側に作られた。豊肥線のホームは東口に行き止まり式となっていた。発車待ちをしていたのは宮路行きである。電化されていないところなので真っ赤なディーゼルカーだった。
新幹線の二枚キップは水前寺までなので、武蔵塚は乗り越し精算である。妻の実家で新年を迎えるとトモヒロの実家に移動した。ここで両親と昼食をして娘にお年玉をもらうと路面電車で熊本城の加藤神社に初詣である。それが済むと新幹線で博多に帰ることになっていた。
藤崎神宮ではなく、加藤神社にしたのは受験の「戦勝祈願」という意味合いが強かった。県立が駄目だったらN学園高校という手はずであるが、やはり県立にしたいというのが娘の本音のようだった。加藤神社も参拝者が多かった。午後三時には参拝を終えて熊本駅に向かう路面電車の停留所に行った。
最初に乗った路面電車は昔からあるタイプだったが、次に来たのは床の低い新型車である。座席の高さは並走する車と変わらないが、乗客が多くて座ることはできなかった。熊本駅に着くと東口の改札から入って地下道を通って新幹線のホームに上がった。始発の「つばめ」があるのでそれに乗り込んだ。
新八代と鹿児島中央しかなかった頃から走っている車両は自由席が横四列とゆったりしていた。背もたれが木でできていて内装は「走るベルサイユ宮殿」という趣である。社内は半分くらい埋まった状態で発射時刻となった。高架になっても線路沿いは高層住宅が増えたため、熊本城の天守閣を見ることもできなくなっていた。
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