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2013年11月30日 (土)

その先へ飛ぶこと〔53〕

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 九月に入ってN大学からボランティア部隊が仙台に向かうことになった。夏は節電が強く求められ、教室も研究室もエアコンは28℃厳守、パソコンも極力控えめにとされた。トモヒロは物流学会で災害時の輸送、交通学会ではインフラの被災対策という二つの発表を予定していた。それは教授に昇進するためのリーチでもあった。

 ボランティアは引率の教職員が二人、学生は十五人である。教員は体育の先生で、職員も二十代後半の若手だった。学生は女子四人、男子十一人、全員運動部である。仙台空港は津波に襲われたが、米軍の協力も得て早期に航空機の離着陸が再開された。新幹線が復旧するまでの間は臨時便も飛んだ。

 ボランティアをする場所は空港のある名取市である。まだまだ津波で堆積した泥がたまっているのを二泊三日の予定で片付けるというものだった。午前十一時に福岡空港から仙台に向かう飛行機に乗る前にターミナルビルで壮行会が行われた。本来は学生部長が見送りの言葉を述べるはずだったが、急な予定変更があってトモヒロが代読することになった。壮行会は地元のテレビ局に呼びかけて取材してもらった。それは八月末にボランティア部隊を出したF大への対抗意識でもある。

 朝八時半に大学に集合するとバスに乗り込んだ。見送りはトモヒロの他に広報委員会の教員と職員二人ずつである。バスは大学の正門を出ると一般道を空港へと走った。貨物地区、飛行機から見える多数の広告、そして第一ターミナルである。ここは昭和四十年代に作られた状態のままだった。東京や大阪に向かう第二ターミナルは真下に地下鉄が乗り入れたときに建て替えられた。

 第一ターミナルは壱岐・対馬・宮崎・鹿児島などのローカル路線用だった。仙台行きもここからである。一同は搭乗手続きをすると二階の団体用待合室に進んだ。

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