その先へ飛ぶこと〔40〕
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家に帰り着くと妻と娘はインターネットのショッピングを見ているようだった。普段の買い物はスーパーが100メートルくらいの場所にあるのでそこで済ませ、月に一回は天神に行くという状況である。車は相変わらずなしの生活だった。軽自動車にして少し離れたところに行ってもいいとトモヒロは言っていた。
年末年始に熊本に帰るのは行きが高速バスで武蔵塚、帰りは水前寺からJRの予定である。新八代と鹿児島の間を吸収新幹線が走るようになって特急「つばめ」は「つばめリレー」に名前が変わった。豊肥線に乗り入れる特急「有明」はそのままで、車両も「つばめ」用と同じメタリックのフランス新幹線みたいな車両になっていた。
トモヒロは家に届いた「新北九州空港シンポジウムの案内」の封筒を開けた。二月に北九州市で行われるそれは金曜日の開催となっていた。場所は小倉駅の北口に近い国際会議場である。研修願いを出して出席かなとトモヒロは思った。国土交通省やJ航空からパネリストが参加するものでタイトルは「北部九州の高速交通体系」となっていた。
北九州空港に唯一運航していたD航空はJ航空に吸収合併され、三月の新空港ではどんな機材になるかが注目されていた。新規参入するS航空は150人乗りのA320なのでこれに見合う大きさとなるとB737かなと見られていた。D航空の使っていたMD87というジェット機は機材の整理という名目で退役だった。
貨物施設をどうするかということでトモヒロも調査に協力した。学会のときに聞いたS急便の設立する貨物エアラインはA300の貨物型で搭載量45トンである。これで北九州と羽田を深夜に往復するが昼間どうするのかが問題だつた。そうしないと機材の有効利用が出来ずに撤退ということになった。
国際線がどうなるかも北九州は不透明だった。ソウルに飛ぶ路線は既に福岡から出ていて北九州市の西部は福岡空港を利用するほうが便利だった。ロシアのウラジオストックという案が出ていたが、これも夏だけの運航という見通しである。それは今飛んでいる新潟や富山も同様だった。
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