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2013年8月 5日 (月)

枯れた街(27)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 小さな川を渡ると江戸川区に入った。JRの車内からもよく見えるN通運平井支店の倉庫が道路のすぐ横に来た。自宅にいるときに地震が起きて出勤できなくなったら最寄のN通運ということも考えたが、そうなると一番近いのがここだった。問題は小岩と平井の間にある荒川である。

 中学校と自動車教習所の脇を過ぎると平井駅に立ち寄った。手洗いは改札内で北口の公衆トイレに入った。平井は南口から伸びる商店街が電車からもよく見えた。一度歩いてみたが、どこか懐かしい風景である。南ルートはJRの線路から大きく離れるが、北ルートはこれから先ほぼ平行だった。

 荒川を渡る橋は堤防がかなり高かった。電車の窓から見ていていつも思うのは川の水面が堤防の外の地面より高いということである。豪雨と地震が重なるとこの付近はどうなるのだろうかと思った。歩道は車道とは別に堤防を登って合流した。橋の下は都心側が広い河川敷になっていて野球場がいくつもあった。

 荒川にもう一つ中川放水路というのがあって、その間を首都高速が走っていた。二つの長い橋を歩いているとJRの鉄橋を総武緩行線の黄色い電車や快速線のマリンブルーとクリームの電車が駆け抜けた。中川放水路のほうは河川敷が全くなく、こちらも堤防の外の地面は水面よりも低い位置である。

 堤防の階段を下りて長いスロープとなった車道に沿って歩き終える頃、出発から二時間を過ぎていた。家までは三時間くらいだなと思ったが、果たして歩くことが出来るのかと思った。大阪と神戸は約30キロあるが知人の支援のためにリュックを背負って歩いた人もいると聞いた。

 新小岩から小岩は一駅ながら駅間の距離は二キロ近かった。新小岩のそばには貨物の駅があり、カラフルなコンテナを積んだ貨物列車が並んでいた。ときには石油タンクもあったりした。亀戸の南から合流する貨物の単線はここを通って常磐線の金町というところに向かっていた。

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