枯れた街(35)
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社員の座談会はまず発生時の状況からだった。全員在宅時で、すぐに出勤できないことがわかった。その日のうちに職場まで行った人はおらず、翌日とか一週間くらい避難所にいて会社には無事という連絡を入れていたという人もいた。
避難所で活動をしたという人は「壊れかけた家から避難するのを拒んでいる老人がいて、余震が来たら死ぬかもしれないと言ったら、嫌じゃあ、ワシはこの家と一緒に死ぬんじゃあ、というので、仕方なく、身の回りの品と一緒に連れ出した」と言っていた。
電車が動かない中で毎日徒歩通勤をした人は「ヤッパリ体力が大事、落ち着いてからはランニングをしたりテニスをやるようにして体力作りをするようになった」と言っていた。さらに被災して水道が出ないのが一番大変というのもあった。十四階建ての集合住宅の最上階ではエレベーターも使えず、バケツに汲んだ水を階段で運んだというのもあった。
トイレの問題も大変で、学校のグランドに自衛隊が深い溝を掘ってくれたのは助かったということである。他には風呂もやはり自衛隊の用意したものは評判がよかった。話が飛んで「憲法九条の二項は削除すべきかな」というのもあった。
家族のほうからは「大変な状況なのに出勤を命じられたのは腑に落ちない」という声が出ていた。N通運が災害時の指定公共機関であり、K電力やガス、NTTといったインフラ関係と同じというのが社員に重くのしかかった。
関西で地震が起きるということは全く想定していなかったため、何の備えもしていなかったと異口同音に言っていた。家族同士の連絡手段として携帯電話を購入しようという機運も高くなったそうである。
座談会が終わると亀井主任研究員とタクシーに乗った。神戸空港に向かうジェットフォイルはポートアイランドの南からである。新神戸から新幹線に乗ったほうが東京に着くのは早いが、亀井主任研究員はマダ関西国際空港を見た事がなかったので、この機会に利用しようと言っていた。
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