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2013年7月31日 (水)

枯れた街(22)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 出張から戻った翌朝、腹痛で目が覚めた。外はマダ暗かった。自宅のトイレではあまり「大」のほうはしなかった。外では他人の尻と間接的に触れ合う洋式は敬遠した。和式だと水溜りに横たわる便の状態で体調を判断することができた。朝は職場に出てからトイレに入り、太さ三センチで、長さが二十センチ程度が二本、あるいは長さ三十センチ一本という状態である。

 トイレットペーパーや水は節約したいのに・・・と思いながら便器に腰掛けると、下痢だった。ペーパーの消費もその分増えた。電車が走る時間帯になっていたので、水を流した。それから布団に入って枕もとの時計を見ると午前6時過ぎである。あと一時間くらいしたら布団を出ようと思ったら再び強い便意があった。またも液状の便である。

 いったいどうしたのだろうと思った。前日は八戸のホテルをチェックアウトする前、部屋の洋式ではなく、ロビーに面したところの「和」だった。その時は三十センチ近い奴にピンポン玉のようなものが乗っかって潜水艦のような形になった。前々日は羽田の搭乗口の近くでやはり「和」にしゃがんだ。このときは太さ三センチ、長さ二十センチくらいのものが二本ならんで、やはりピンポン玉のような残りが落ちた。

 もしかしたら・・・生牡蠣だったのだろうか、あるいは「はつかり」と「やまびこ」を乗り継ぐ長旅の疲れが来たのか。日曜日は昼から職場に出て、そのときは秋葉原駅ビルにあるデパートの二階、土曜日は朝から夕方まで職場にいて十時ごろトイレに入った。いずれもいつもと変わらない色・形・量である。

 7時くらいにマタ下痢便が出た。朝食は止めて正露丸を飲み、様子を見ることにした。9時前に職場に電話して「下痢と嘔吐」と大原室長に少し大げさに言って休みにしてもらった。10時過ぎに亀井主任研究員から電話があった。福岡市の港湾局から「追加のヒアリングをして欲しい」ということだったが、博多港の背後圏になる佐賀県は亀井主任研究員の他の調査と合わせて聞くことにし、一番有望な博多と関東ということに絞ることにした。

 とにかく次の週はメタノール自動車、鉄道貨物と委員会が目白押しだった。札幌と八戸でやったヒアリングも家でワープロを打たないといけない状態である。医者に行くといっても胃腸の関係はすぐ近くになかった。昼には食パンを一枚だけかじり、正露丸を飲んだ。下痢は起きなかった。

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