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2013年7月25日 (木)

枯れた街(16)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 ホームに並んでいる人の数を見て、恩田元常務は一号車のほうに行こうと言った。さすがに一番後ろとなると少なかった。京都までは運転が再開されたらしく、名古屋は始発でないことがわかった。ホームに立って号外を見ていたが、死者は数十人となっているものの、建物の下敷きになっている人が多数いるというところからかなり増えるのではないかと思った。

 到着したのは一番古くから走っている0系で十六両だった。一号車はまだ空席が多かった。三列の座席は中央で背中合わせに固定されていて私たちは真ん中に近い三列席に後ろ向きに座った。発車すると空席を探す人がどんどん一号車に入ってきてほぼ埋まった。

『のぞみ』も『ひかり』も走らないのに各駅ではダイヤ通り四分停止した。 通過線を見ながら元常務は「コンピュータの切り替えが難しいのだろう」と言った。一時間に「こだま」二本というダイヤなら名古屋から豊橋にかけては在来線の新快速を使うほうが便利だし、熱海と東京だって在来線利用になるのかなと思った。静岡で乗客が少し減ったが、乗り込んでくる人もいなかった。

 小田原で元常務が降り、新横浜で大原室長も降りた。一号車は半分くらい埋まった状態で東京に向かった。二列側が空いたのでそちらに移動した。品川の急なカーブを過ぎて山手・京浜東北・東海道と並走するのを見ていた。東京でもし大きな地震が起きたらどうなるのかと思った。三陸・福島・茨城と東京に近づいていたのがどうして関西に飛ぶということになったかもよくわからなかった。

 小岩のイトーヨーカドーの閉店時刻には間に合わないので、夕食は東京駅の中央通路に面した食堂ですることにした。朝のパンと牛乳は18日朝の分まで残っているので、夜の分だけである。その後は地下に降りて総武線の始発快速に乗った。隣には赤と白に塗られた成田空港への特急が止まり、これが出てからの発車である。4人掛けのシートに座っていると帰宅する勤め人でいっぱいになった。

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