その先へ飛ぶこと(22)
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N通運の本社ビルに入ったのは午後三時だった。研究所OBの懇親会は午後6時から地下三階の食堂で始めるが、その前に懐かしいフロアをじっくり回るつもりである。最初に入ったのは「資料室」でここには博多の「にわかセンペイ」を土産として置いた。在職時に地方から出てきたOBがそのようにしていたのを踏襲したのである。
経済研究部から研究開発部に移った二人がテーブルで新聞を見ていた。どちらも五十歳を過ぎて受託調査よりも入札のほうに回された。簡単に近況を報告したあと、管理部のフロアに移った。部長は本社から新しく降りてきていたが、受付の女性二人に経理の二人はそのままだった。受付の人には「少し太っていませんか。あっちは美味しいものが多いでしょう」と言われた。
経済研究部のほうは佐野が大阪に出張中で、他にも新潟や名古屋に行っていて出張旅費の精算などをしてくれる経理机の人だけだった。こちらも受付と同様に体型の変化を指摘してきた。三月は調査の〆で戦場のようになっていた。
物流技術部には入社当時の部長だった松崎氏をはじめOBとなった人たちが今も調査の手伝いで出社していた。松崎氏は福岡の出身で細かな話は懇親会でということになった。かつて折りたたみコンテナの略称がオリコン、フレキシブルコンテナの略はフレコン、しかし車輪つきのものをローリングコンテナとしたら略称が大変なので、ロールボックスと名づけたのもこの人である。
研究所のホームページは研究開発部の女の子が管理していた。彼女は経営コンサルティング部にいたが、こちらには中国から日本に留学し、研究所に就職した人がいた。二十一世紀は中国進出が鍵だということで、四月からさらに一人中国人が採用されるそうである。
情報システム部はトモヒロが入社した頃には二十人いたのが、わずか4人にまで減って「白色矮星」のようになっていた。本社に戻った人もいれば他の部に異動した人と様々である。
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