枯れた街
また 新たな作品を・・・阪神大震災に関するものです
羽田に向かうモノレールの最後部で、私は後方に去っていく景色を見ていた。9月も終わりに近づき、和歌山に出張することになった。東京と大阪の間は新幹線でないと認められなかったが、そうなると和歌山の出張は三時間の「ひかり」に加えて乗り換えなしの特急でも新大阪から一時間もかかる難行となった。
関西国際空港が開港して、空港から連絡バスで一時間となると飛行機での出張が時間も金も合理的となった。あえて前例を作るということで、羽田から関西国際空港に飛んで、和歌山に行き、その日の夜は大阪に泊って大阪での仕事をするというスケジュールを組んだ。
N通運の子会社のシンクタンクに入社した私は、航空貨物や海運の調査で全国を飛び回っていた。福岡市の港湾局から新型の高速貨物船テクノスーパーライナー導入の調査、関東運輸局からも新型の内航貨物船の導入調査を受託し、羽田と福岡は月に一度の往復をしていた。テクノスーパーライナーは最高速度五十ノット、新型の内航貨物船はそれより少し遅くて三十ノットである。在来のカーフェリーは二十四ノット前後なので、生鮮食品や宅配便などの利用が期待されていた。
和歌山と大阪の出張は内航貨物船の関係である。同じ時期に宮崎に広田主任研究員が出向き、私は大原室長と和歌山・大阪に行くこととなった。大原室長は横浜に住んでいて京浜急行を使えば羽田に来るのが便利だった。私は東京都の一番東の江戸川区でJR総武緩行線の小岩駅のすぐ近くに住んでいた。
遠ざかっていくモノレールの支柱やコンクリートレールは色あせていて、もし首都直下地震が来たら倒壊するのではないかという気がした。運河を走るところは対岸の高層住宅郡もあって壮観だが、ここで脱線したら濁った水の中に転落してしまうかもしれなかった。水底トンネルをくぐって整備場前に止まり、次は前年までは終点だったが、ターミナルビルが移転して五キロほど路線が長くなった。
天空橋という地下駅を出ると再び地上に上がり、進行方向右は多摩川、左が空港である。全長四百メートルにもなるターミナルビルは北がA空輸の青い機体、南はJ航空の赤い鶴丸の尾翼が並んだ。南側の端にはD航空のレインボーカラーもあった。滑走路の下をくぐるために地下に潜ると壁に「ようこそ羽田」という電光表示が現れた。
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