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2013年7月28日 (日)

枯れた街(19)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 М電機でのヒアリングは一時間程度で終わった。やはり国内に関しては輸送手段の多様化は必要なものの、博多から関門海峡を通る高速船というのには疑問がもたれていた。何しろ一番狭いところが七百メートルしかなく、東西に激しい潮流があるところを航行するというのが難点だった。むしろ博多から国際航路、特に上海が有望ではないかということである。距離的には東京と上海は博多から同じ距離であり、博多湾を出れば最高速度で行けるので、十二時間くらいで結ぶはずだった。

 試作された船についてもK重工の神戸で作られたジェットフォイル方式は大阪湾の試験で四十ノットと目標の八割にとどまった。船体が実物の七分の一しかないので本番はこれよりもというのは屁理屈でしょうとヒアリング先では言っていた。一方、М重工の長崎で作ったホバークラフト方式は五島の近くで五十四ノットを出した。こちらのほうが有望ではないかというのが大方の見方になりつつあった。

 ヒアリングが終わると亀井主任研究員は福岡空港に向かい、J航空に乗ることにした。私は天神を少し見てから福岡空港に行くつもりである。予約を入れたのは最終の一つ前の便だった。天神ではイムズというビルに入った。地下二階から十階まで吹き抜けになっていて、四階には自動車のショールームも入っていた。

 福岡空港に着いたのは午後5時過ぎである。自分でするチェックインでは左前方の窓側を指定した。それから駐機場に面したレストランでカレーライスのセットを食べた。目の前に止まっていたA空輸の747が出て行き、入れ代わりにJ航空の747が入った。山陽新幹線の新大阪と姫路の間が不通になって新幹線の客も空にシフトせざるを得なくなっていた。福岡の高校の修学旅行は長野へのスキーというのが主流になっていたが、新幹線を急遽空に替えるために大変だと聞いた。また、大阪と岡山、大阪と広島といった臨時便も設定された。

 

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