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2013年7月22日 (月)

枯れた街(13)

前回までの内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください m(_ _)m

 1月17日の朝、軽く突き上げるような振動で目が覚めた。茨城か千葉の地下深くで「ナマズ」が動いたのかなと思って時計を見ると六時前である。外はマダ暗かった。いつも起きるのは朝7時くらいだった。家を出るのが8時で職場には30分で着いた。

 名古屋でのメタノール自動車に関する調査委員会は午後一時半からの予定である。一時までには会場に着くとして名古屋駅あたりで昼食、新幹線は9時過ぎに東京駅を出発するのに乗ればよいという腹積もりだった。朝8時に家を出て東京駅まで直行である。会議の資料は三連休の間にプリントアウトして紙袋に入れて家に置いていた。

 6時のニュースでは関西で強い地震があったという一報である。京都で震度5、岡山も震度5、東京や山口でも揺れを感じたということだった。冷蔵庫から食パン二枚と牛乳を取り出した。パックを開けてしまうと冷たさが増すため、パンに少しずつ漬けるような感じで食べた。

 7時のニュースで震源は淡路島の北部、神戸などで震度6の揺れがあったとなっていた。そして新幹線が運転見合わせになっているというのも心配だった。とはいえ、運転再開を待てば名古屋に行けるだろうと判断した。会議には大原室長、一年前に退任して大学教員に転じた恩田元常務も参加することになっていた。恩田元常務は学識経験者という立場である。委員会の座長はトヨタの人だった。

 少し早めに七時半には家を出た。7時40分の中野行きの電車は座席とつり革が全て埋まった程度である。もう二本くらい後になると乗り込むのも大変な込み具合になった。駅に止まるたびにドアの近くにいる人は一旦外に出ないといけなくなるのである。

 錦糸町では身動きできない状態になった。小岩から秋葉原までは通常なら十五分だが、二十分かかった。山手と京浜でどっちが先になるかだが、山手のほうが先だった。京浜はラッシュ時間帯以外には快速運転が行われたが、東京までなら大差なかったし、羽田に行く場合、浜松町に止まらないというのが難点である。

 東京駅に着くと中央の通路から新幹線の改札口を通った。地震の影響で線路の点検中というアナウンスがあり、運転再開を待つ人がさぞかし多いのだろうと思った。名古屋までの切符を見せると駅員は何も言わずに通してくれた。

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