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2013年6月12日 (水)

その先へ飛ぶこと

 朝の総武快速線市川駅は、都心に向かう通勤・通学客で込み合っていた。十五両編成の電車が入ってくると、トモヒロは前から四両目に乗り込んだ。十一両プラス四両で運転される快速電車は運転台がついていた。もう座席は完全に埋まり、何とかスピードメーターが見える場所に陣取った。

 昭和五十七年に熊本の高校を卒業したトモヒロは、N大の理工学部に進んだ。機械学科で修士を取り、N通運に入社したのが昭和六十三年である。重量物運搬を行う部門に一年いたら系列のシンクタンクに出向させられた。このシンクタンクは情報システム・物流技術・経済研究・経営コンサルティング・資料室で構成されていた。

 物流技術部に入るとJR貨物関係の仕事に関わった。バブルの全盛期でトラック運転手の確保が難しくなり、貨物輸送をトラックから鉄道に戻すための研究が技術面・経済面から行われていた。経済研究部の仕事も手伝っているうちに、平成四年からは経済研究部に移された。

 平成七年に結婚して翌年に娘が生まれた。鉄道貨物輸送以外に内航海運や流通加工にも参画して物流学会でいくつかの研究発表をしたり、所内報にも記事を書いているうちに平成十年に福岡のN大学が流通科学部を設立したので十二年から専任講師として物流の講座を持って欲しいという誘いを受けた。

 研究所は総務を含めて100人近いスタッフがいた。研究部のなかでも経済研究部は大学教員に転身する人が多く、N通運が設立に関わったR経済大学をはじめ、いくつかの大学でOBが教鞭を執っていた。N大学の話は熊本のK学園で情報や物流産業を教えるOBから持ち込まれた。

 ノストラダムスの予言も外れ、平成十一年の夏が去って下半期が始まっていた。入社してからずっと市川に住んでいるトモヒロは、気分によって快速に乗ったり、各駅停車で秋葉原まで乗り換えなしで行ったりしていた。快速は入社した頃はマリンブルーとクリームのツートンで三ドアだったが、結婚した頃から入ってきたステンレスにマリンブルーとクリームのラインの四ドアへと変わり始め、最近では全て新しい車両になっていた。

 江戸川の鉄橋を渡って隣の小岩駅に止まっている黄色い各駅停車を追い越した。小岩駅は各駅のみホームがあり、快速はホームの北側の線路をトップスピードで走りぬけた。快速の止まる新小岩はどちらもホームがあり、荒川の鉄橋を渡ると平井と亀戸でまた各駅のみホームとなった。荒川から平井あたりまでは快速用の線路の北にさらに貨物用の単線が並走したが、これが頭上を超えて亀戸では南側に移った。

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