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2013年6月20日 (木)

その先へ飛ぶこと(9)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 朝8時、トモヒロは大学から歩いて五分の賃貸マンションから出勤の途についた。マンションは四階建てで自宅は三階だった。マンションの前の道は20年くらい前は国鉄の線路だった。博多駅を出て唐津へと向かうその路線は地下鉄が出来て相互乗り入れするようになって廃止された。駅だった場所に区役所が出来、ここで転入手続きをした。

 区役所のそばには国道が不自然に高低差のある陸橋で川を渡っている感じのする場所があったが、線路をまたぐためだったと大学に長く勤めている人から言われて納得した。この国道は大学の前を通って唐津方面へと通じていた。博多駅や天神からはバスが頻繁に走っていて学生の多くがバスで通学していた。

 N村学園前というバス停のすぐ横に正門があり、創立当初からある校舎が国道に面していた。キャンパスは国道の南側にあって、少しずつ南に高くなる地形である。流通科学部の新しい校舎はキャンパスの西、一階は国道と同じ高さ、二階は少し高い部分に建つ図書館の一階と同じ高さで出入りするという作りだった。

 トモヒロは正門から入って図書館脇の坂道を通り、二階から入った。受付や事務室は二階で、一階は学生食堂である。トモヒロは事務室の出勤簿に判子を押し、メールボックスに入っているものを取り出して研究室に向かった。二階には大教室があり、三階は小教室、四階から八階までが教員の研究室やゼミのための教室などがあった。トモヒロの研究室は七階の東側である。

 研究室は幅三メートル、奥行き五メートルで、ドアには窓がついていた。N大学は女子の割合が高く、栄養学部は九割、流通科学部でも四割が女子である。それで教員による性的な不祥事には神経を尖らせていた。ドアの近くには長テーブルと椅子があり、両方の壁は本棚、窓に向かうパソコン机に座る後姿が見えるという感じである。中には大学の「配慮」を監視と思っているのかドアの窓をポスターやカレンダーで塞いでいる教員もいた。

 研究室からの眺めは正面に標高六百メートルの油山があり、一面住宅地となっていた。福岡ではマンモス私大のF大学の14階建ての経済学部棟が目に入った。そのそばには医学部の付属病院もあった。視線を南西に向けると背振山地である。

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