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2013年6月14日 (金)

その先へ飛ぶこと(3)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 経済研究部のフロアは中央通に面していた。日曜日の歩行者天国が見下ろせるが、誰かが「自動小銃を乱射したら歩行者、天国」と言ったりしていた。九月と三月は調査の〆の関係で休日出勤は当たり前だった。経済分析は6月と12月に経済予測と貨物輸送の見通しを出していた。トモヒロと同じ年にA大学経済学部で修士を取った佐野が研究主査として作業の中心になっていた。

 佐野は母校で交通経済論の非常勤講師をしていた。経済研究部長は経済分析室の室長から昇格した塩田で、この二人は研究所に直接採用された。トモヒロの所属する物流産業研究室は石原室長が名古屋にある大学へ、その次の藤村室長は千葉の大学に定年退職後に移った。今は本社で航空貨物事業部で課長を務めていた相原が室長として移ってきた。

 経済研究部にもう一つあるのが国際物流研究室で、ここは昭和五十八年にN通運に入ってトモヒロと同じように入社二年目で研究所に来た酒井が四月から主任研究員昇格と同時に室長になっていた。前任の室長は定年で群馬にある大学で物流の講座を持つこととなった。なぜか分からないが「昭和天皇の隠し子」という噂がささやかれていた。日本企業の海外展開に伴うロジスティクス調査のため、一年に五・六回は海外に出ていた。

 入社した頃、各自の机の上にはまだワープロはなく、報告書も手書きの原稿を印刷屋で活版にしてもらうような状態だった。パソコンで表やグラフになるものは作成したが、記憶媒体は五インチのフロッピーである。それが各自の机にワープロが置かれるようになると3・5インチのフロッピーに文章を入れていくということになった。委員会の資料から報告書へと流れる中で印刷屋の役割は最後の製本というところに限られるようになった。

 ワープロからパソコンに切り替わったのは平成九年からである。研究部全員の机に置かれるのもワープロではなくパソコンとなり、プリントアウトもパソコンの席でフロッピーを差し込むのから四つくらいの席から一つのプリンターをつないでということになった。パソコンはインターネットにつながれたので、仕事をしているのかと思ったらネットサーフィンをしていたというようなことも出てきた。

 佐野はワープロからパソコンの流れを頑なに拒んで、経済見通しと貨物輸送予測はワープロのフォーマットのまま作り続けた。古い資料はワープロ文書として作成されていたので一台だけ残されたワープロ専用機で文書を打つ姿が見られた。もし完全にパソコン化となったらどうするのだろうとトモヒロは思った。J航空の本社に行った時は完全にパソコン化したと聞いた。

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