大阪感情線物語(14)
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後期の試験が終わってから法律相談部では、高野山に四年生の追い出しコンパを兼ねた一泊二日の合宿を行った。南海高野線終点の極楽橋に直接行くほうが便利なグループと難波駅のロケット広場に集まるグループに分かれた。Мはロケット広場に集まるほうである。今村や木下さんも同じだった。
阪急梅田駅から動く歩道に進んだМはまっすぐ昔の阪急の駅跡に行った。今の駅の前は電車は国鉄の下をくぐっていたが、ホームの跡は阪急百貨店の二階までの吹き抜けになり、真ん中には大理石の柱が並んだ。切符売り場の跡はドーム天井になっていて、そこから地下に降りる階段があった。
地下に降りると市営地下鉄の切符売り場で難波までの券を買った。地下鉄を利用するのは入学試験のとき以来である。会場は難波駅に近い予備校だった。地下鉄御堂筋線の梅田駅は南の改札から入ると地下鉄のホームまで丸見えで天井はカマボコ型になっていた。難波駅で南海に乗り換えるのも南口なのでМは銀色の車体に赤い帯を入れた電車の運転台の後ろに乗り込んだ。
南海難波駅も地上から三階のホームまでエスカレーターで一気に上がる形だった。ロケット広場は二階である。これは阪急梅田でも二階にある紀伊国屋書店前のスクリーンで待ち合わせるということで似ていた。ロケット広場は天井屋根がなくて雨が降ると濡れる可能性があった。高さ三十メートルのNⅡ型というロケットがあって、噴射口に頭を突っ込んでいるのは誰かと思ったら今村だった。
ロケット広場に集まったのは四年生三人、三年生二人、二年生五人、一年生四人、あとは民法の加藤先生と行政法の小村先生である。特急「こうや」号の座席は男女を考慮して並べられ、Мは加藤先生の横になった。窓側はもちろん先生である。電車は赤と白に塗られた四両編成で一行は一番後ろの車両だった。座席はワインカラーの二人がけである。
先生との話は最初は剣道部の助っ人をしたことだったが、そのあとは進路のことだった。司法試験を目指すのか公務員にするのかМは揺らいでいた。OC大は毎年五人前後の司法試験合格者を出していたが、みんな三十歳近くまで浪人生活をしていた。そんな現実を目の当たりにすると神戸市役所か兵庫県庁でいいのかなとすら思い始めた。
大阪平野から紀伊山地の林間田園都市というところまでは100キロくらいのスピードで走っていたが、ここを過ぎて線路が単線になるとスピードが半分くらいに落ちた。橋本に停車して紀の川を渡り、山道に入ると電車の速度は30キロあるかどうかという状態になった。それは中学・高校まで優等生だった者が怠惰な生活に陥っていくような落差である。
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