« 東日本大震災(1903) | トップページ | 東日本大震災(1904) »

2013年5月 6日 (月)

大阪感情線物語(3)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 教養部の正門には「成田空港二期工事粉砕」と書かれた立て看板とその横に門番のように立つ活動家がいた。白いヘルメットにサングラス、口元はタオルで隠して竹ざおを持った姿は何とも異様で、しかも三十歳をかなり超えているのではないかという違和感があった。門の内側には守衛の詰め所があるのだが、何も言わないのもまたおかしな大学という印象を受けた。

 昭和の初めに建てられた三号館の東側には車椅子向けのスロープが新設され、ここに休校の掲示板があった。一時間目が休みという掲示にМは朝早くからの通学の徒労を覚えたが、すぐに学生係の事務室前の掲示板でアルバイトの案内を見ておこうと考え直した。そして大学まで歩いてきて便意をやっと感じたので、トイレに入った。

 小学生のときは学校で代弁をすることはタブーだったのに中学以降は登校して行くという習慣に変わっていた。三号館のトイレの個室はかなり狭く、昔はすべて男用だったのを仕切りを設けたという感じである。Мはショルダーバッグと下を全て脱いでドアの金具にかけてしゃがんだ。

 水溜りに三本の茶色いバナナ状の塊が横たわり、ペーパーをちぎっていると二人連れが入ってきた。小用の便器に勢いよく放水する音がドア越しに聞こえてきた。

「S学園から来た一年生。いい剣道センスしてるなぁ」

「さすがはSだねぇ。俺、地稽古で抜き胴をズバッと取られたよ」

「抜き胴と言えば、去年インターハイで個人優勝した奴から地区予選で二本も取った奴がうちに入学したんだって」

 Мはペーパーを持つ手を止めて耳をすませた。

「へぇぇ、誰かわかっているの」

「K高のМという名前で、法学部に入ったという情報がある。どこに隠れているのだろう」

 今ドアを開けて出るのは不味いなとМは思った。しばらく間をおこうと思ってМはしばらくしゃがみこみ、縮み上がった「第三の足」にもう一度立ち上がるように促した。

 十分くらいしてМはトイレを出た。授業はとっくに始まっている時間帯だが、多くの教員が時間通りには来なかった。30分過ぎると「自然休講」ということになるが、さすがに「万歳三唱」はなかった。

 廊下の天井は異様に高く、パイプや電線がむき出しになっていた。窓ガラスもまた、かなり高い位置にまであった。壁には無数のビラが貼っては剥がされたあとが残っていた。アルバイトを紹介する掲示板は塾や家庭教師のものが主流だが、エリアはМの通学ルートから外れていた。天王寺の予備校で模擬試験の監督をするのはどうだろうと思ってМは事務室のドアを押した。

|

« 東日本大震災(1903) | トップページ | 東日本大震災(1904) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大阪感情線物語(3):

« 東日本大震災(1903) | トップページ | 東日本大震災(1904) »