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2013年5月 4日 (土)

下り坂(149)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 総会と懇親会にも出席した。哲也は二日目は午前に連盟稽古に顔を出して午後には所内の副主任研究員の結婚式に参列する予定だった。彼は入社して大阪支店、本社の旅客営業本部、北京駐在を経て出向してきた。彼の年齢ならば、本体に復帰してどこかの支店長や本社の部長になる芽は残っていた。

 懇親会では元J航空だった人と最初に話した。М大の商学部からW大の研究センターに移っていた。話題は大学の被災地支援で、二年目の夏休みもボランティアバスが出ていた。A空輸も社員のボランティアは南三陸である。阪神大震災を経験したK大学もやはり学生ボランティアを続けていた。

「うちでも仙台空港が復活してから始めましたよ」

 福岡の大学から来ている先生もそう言った。哲也はどこの便を利用したかと反射的に思ったが、口に出すのは避けた。学生と教職員合わせて三十人が空路で仙台に飛んで石巻に入ったそうである。

「福岡と花巻を結ぶ便というのがあれば三陸の被災地にも行きやすいのですが」

「それはJ航空さんがやってます。一日一便で小さな飛行機ですが」

「そうですか。山田とか大槌とかそのあたりにも」

 哲也は北九州市の支援要員は釜石にどうやって移動したのかと思った。九州と東北の人の流れが小さいので、北九州空港から青森・秋田・山形・仙台・花巻・福島というルートも考えようがなかった。

 O大学に所属している先生とも話をした。経済学部で講義科目は公共経済学である。関西地区の私鉄の研究がきっかけで交通の学会にも入った。哲也は法学部卒ということを告げてクラブ活動のことを探ってみた。アーチェリー部との接点は消滅に近い状態で、七大学がどうかということも剣道部を含めて興味が失せていた。

「バドミントン部の顧問に名は貸してますが、私は全くやったことなくて」

「アーチェリー部の顧問は工学部の先生ですが、現役とOBの懇親会以外ではお会いしたことなかったです」

 午後七時半にお開きとなって哲也は帰りにS剣友会に立ち寄った。子供の数はそんなに減ってはいないが、大人はさらに増えていた。親子でというのが多く、子供が始めたのをきっかけに再開するというケースである。

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