下り坂(148)
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平成二十四年秋の交通学会全国大会はN大商学部キャンパスで行われた。哲也の住むところから三キロくらいしか離れていないので、自由論題で発表させてもらうことにした。テーマは「災害における航空輸送の役割」ということで、ヘリコプターも交えた災害ロジスティクスの構築となった。
空港の津波対策ということで哲也は北九州・宇部・大分・宮崎・高知・徳島・関西・中部の各空港のヒアリングを手伝った。宇部に飛んだときに初めて787に乗ったが、胴体が太い分、767より二列増えていた。中部に行ったときは名古屋まで新幹線、そこからN鉄道のミュースカイを利用した。
首都直下地震が来たら羽田はどうなるのか?羽田自体は大丈夫でもアクセスが問題である。モノレールも首都高速羽田線も老朽化していて揺れに耐えられるのか心もとなかった。モノレールの橋脚が劣化しているのを見てから哲也は品川からK急行というルートを主体にしていた。
K急行は蒲田駅を改良して立体交差となった。哲也がA空輸に入ったときとは完全な様変わりである。万一首都の鉄道網が寸断となったとき、区間運転という形になるのだろうと思ったが、それは発表の趣旨からは別である。救援物資の輸送は貨物専用機とヘリコプターの連携というようなイメージだった。
N大学商学部のキャンパスは新しくなったばかりで講義棟もきれいだった。研究所のなかには非常勤講師として都内の大学に週一回行く人もいたが、話を聞くとやはり建物はきれいになっているということである。トイレもオール洋式で清潔感が漂い、これなら「便所飯」というのもむべなるかなと感じた。
一人で孤高のランチというのにも慣れてしまった。とは言っても学会で顔見知りの先生と学生食堂で食べることにはなった。その先生は哲也の故郷にできた東アジア経済研究センターというところの所属である。観光や物流で北九州をどうするかというのは哲也にも関心の深いテーマだった。
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