大阪感情線物語(29)
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ループの内回りで大阪から天王寺に来たMは、ループの最後尾から阪和線各駅停車の最後部に乗り移った。九月に入って集中講義が始まった。第一週は比較政治学で、大学のOBで九州の大学で教鞭をとる薮田先生だった。この先生の講義は面白くて単位も取りやすいという評判だった。
「マルクスが死んだ年にケインズが生まれて、ケインズが死んだ年に私が生まれた。こんなことを言うと偉大な学者と並べるなと言われそう」
最初の自己紹介は一発で頭に焼きついた。そのあとも様々なギャグの連続で、月曜から金曜まで丸一日というハードなスケジュールも退屈しなかった。今村は「薮田先生は吉本興業に行ったほうがよかったのかも」と言ったりしていた。
金曜日の最後に試験があり、次の週はソ連法である。先生はR大学からだった。こちらも月曜から金曜までのぶっ通しだった。テキストはなく、プリントが配られて、板書された内容と合わせて覚えていくという形である。
夏休み期間とあって電車は座ることができた。教養部の前期試験が始まるとたぶん最後尾は満員になるはずである。四月の満員状態が六月にかけて乗車率が逓減するのは講義の出席状態とも似通っていた。それは薮田先生も指摘したとおりである。これと関連付けていた「ラッファーカーブ」というのも面白い説明だった。
木下さんもソ連法に受講届けを出していたが、今村はなぜか文学部の集中講義を選んでいた。比較政治学に比べて優を取りにくいという情報もさることながら、「左寄り」と思われたくないのもあるのか受講者も半分程度である。
教室は一号館の3階だった。先生は時間通りに教室に来てまずソ連憲法からスタートした。私有財産というのはない建前だから民法はなく、憲法の次は刑法という具合に進んだ。
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