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2013年4月15日 (月)

軍艦のある丘(6)

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 残暑は厳しいが窓を開けていれば寮の部屋は涼しかった。盆休みは職場の模様替えのために休みナシで、夏休みが取れるとすると九月になってからである。七月は書類の格納に四苦八苦したものの、午後七時には寮に戻ることが可能だった。鹿児島出身の者はおっとりした性格もあって午後八時くらいまでかかっていた。

 大変な状況になったのは新体制になってすぐだった。「書類が回っていないのではないか」という支社からのクレームが殺到したのである。五つのグループで計三十台の電話は四つのグループで十二台に集約された。四グループを統括する課長と次長の二台も合わせて鳴りっ放し、もちろん話中になってつながらない。四台あるファクシミリは「電話がつながらないため」と一日中紙を吐き出していた。

 八月は契約件数が少ないため、昼間は手持ち無沙汰になるだろうと言われていたのが、一転してしまった。昼間は電話を受けて棚に埋まった書類を引っ張り出す作業が午後九時、午後十時と次第に遅くまでかかるようになり、とうとう午前零時を過ぎるという具合になっていた。それは対策の会議もやってということで、夕食のために寮に戻って再び職場へという状態だった。

 寮の朝食が始まるのは朝七時半からである。ぎりぎりまで眠ってロールパンやクロワッサンを計四つにマーガリンとジャム、ハムエッグに牛乳、オレンジジュース、最後にコーヒーと急いで胃袋に流し込んだ。ご飯にするときは味噌汁、卵と醤油かけと二杯は食べて体力を維持することとしていた。

 各自の郵便受けに入るN経済新聞を取ると「猛烈な便意」に襲われた。エレベーターで六階まで戻る余裕はなく、一階にアル男子トイレに駆け込んだ。一階だけは賄いのために女子用もあった。便器にしゃがみこむと下痢ではなく、水溜りの後ろから前まで一直線の太い塊だったので一安心した。

 ネクタイは締めたが、上着は小脇に抱えて職場へ向かった。水田は一面緑に変わっていて、チョコレートムースのような富士が箱根の向こうに見えた。遠雷のような御殿場での射撃演習はしばらくやっていないようだった。

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