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2013年4月30日 (火)

下り坂(145)

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 平成二十四年の元旦もK高の初稽古に参加した。93番のバスで正午過ぎに着くと体育館一階の道場ではもう竹刀の音がしていた。哲也は入り口に道具を置くと校舎の周囲を回ってみた。今年は珍しく同期生が来て一年のときの担任だった先生が亡くなったことを知らされた。還暦直前でガンだったのだが、哲也の脳裏によみがえったのはタバコを片手に突っ立っていた姿である。

 OBのほうが現役よりも遥かに多く、稽古は二階のアリーナで行われた。気温が10℃を下回って指先が凍りかける状態である。実業団も国土交通大臣杯も出なくなってしまったが、土日は何とかやるようにしていた。現役は女子が四人しかいないのはショックだった。年配のほうになるので全員とやれた。N中は一人だけである。

 N中出身の男子は二年が神岡と安川、一年は安川、椎野、西村である。N中出身で西村だけが推薦ではなかった。安川は兄弟ではなかった。一年のほうの安川は団体で全国に出た。二年の神岡と安川は新人戦の地区予選の個人決勝で戦い、神岡がトップに立った。哲也は神岡との最初の太刀は面返し胴を入れたが、一本では引き面を取られた。

 二年の安川のほうが今日は調子がいいのかなと哲也は思った。最初は同じく面返し胴をやったが、向こうの勢いがよくて食い込まれた。一本では小手から胴に来るので決められた。一年の安川にも同じく面返し胴から入った。振り向いて面に来ようとしたのは喉元に剣先を向けて何とか制した。一本ではようやく足が動くようになったので面に出たら小手を打たれた。

 椎野の前に他の中学から来た者数人とやったが、やはりN中のほうが上と感じた。最初は面返し胴、一本では隙を作って取られた形である。椎野への面返し胴は振り向いてから面をやられた。一本では出小手を取られた。最後の西村にもまず面返し胴を決めて、一本はわざと左脇を空けてみたら見事に決められた。何とかレギュラーに食い込めるかもしれないと哲也はみた。

 現役とは全員やれたが、今年も来ていた永田をはじめOBとは誰一人やっていなかった。永田は一昨年に七段に上がっていた。電力関係はT・C・Qといたのに皆不参加である。そして終わってからの車座ではQ大学の四年生がQ電力に内定していると言って驚きの声が沸いた。「玄海原発が動かないと電力供給が限界」というネットでの工作活動に加担しないといけないなと誰かが言った。

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