下り坂(130)
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研究所に来て二年過ぎ、哲也の肩書きは副が取れて主任研究員になった。学会の年報に掲載してもらって始めてのレフェリー論文ということになったが、それがA空輸という冠のおかげであることも忘れてはならなかった。長崎と山口の観光というテーマが片付くと今度は「航空自由化」に関する国債シンポジウムのほうに関わった。
五月にロンドンで行われるシンポジウムのため、哲也は土曜日も職場に顔を出した。電子メールのやり取りをする相手は以前の出向先やロンドンにある研究所である。往復の航空券は手配済みで、もう747ではなく、777になっていた。福岡に飛ぶときも747は減り、777が中心となっていた。
午後五時には引き上げてS剣友会に行くことにした。日曜日にある区の連盟稽古に顔を出すことはほとんどなくなり、S剣友会は週一回を何とかというペースである。会員の数は小中学生が各学年で五・六人ずつという状態だった。大人の数は土曜日は10人前後だが、平日は三人前後だそうである。
体育館はトイレが改修されて和式から洋式に変わった。地震で避難所となった場合に年配の人も困らないようにするためだが、哲也は成長期の足腰を鍛えるには一つくらい残すべきではないかと思っていた。それでも四十歳を超えてから和式にしゃがんでから立ち上がるのに少し疲れを感じたりすることもあった。
小中学生の基本稽古が始まるころ、Мが体育館に現れた。研修期間で羽田の研修所には自宅からの通勤と言った。彼は十一月に四段に合格してから土曜だけ恵子に来ていた。会社の剣道部とはまだ連絡を取っていないようなので、哲也は大田区に住む監督を紹介した。
中学生以上で地稽古となって哲也はまずМと竹刀を交えた。剣先をつき合わせて最初は面返し胴を入れたが、そのあと小手を二本取り返された。そのあとは中学生三人でそこそこにしのいだ。大人で四段挑戦中の人がいて最後に立ち合いをした。最初の面は相打ち、それから面返し胴、小手抜き面とやって最後に引き胴を打たせた。
五月にある区の大会をどうするかと言う話になった。哲也も参加することにしたが、いつの間にか三十歳以上の部はさらに四十歳以上と分けられていた。そのうち大人の区分を細かくするかもしれないなと先生は言った。実際、年配の人で昔取った杵柄でまた再開というケースが増えていた。
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