« 東日本大震災(1871) | トップページ | 東日本大震災(1872) »

2013年4月17日 (水)

軍艦のある丘(8)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 問題のある契約番号を決定に回すために内容のプリントアウトをするのが大変だった。そのプリンターは一台しかなく、フル稼働でトナーや紙が頻繁に切れた。昼間に打ち出せる数が限られていてシステム部のプリンターは夜間でないと動かないようになっていた。基本的にはシステム部のプリンターが翌日回す書類のためのプリントを行うのだが、そのプログラムが動かないのである。

 昼休みの時間になると食堂に駆け込んだ。とにかく燃料の補給だけはやらないといけないという感じである。チキンステーキにご飯、味噌汁と取ってレジに並ぶと保険金部の同期と居合わせた。本社に電話が通じないために保険金部にまで契約へ回して欲しいとファクシミリが来ていて迷惑をかけていた。保険金部はフロアに持ってくる余裕があったが、忙しい企業年金はビル内で書類を圧搾空気で移動させる装置を使っていた。

 食事を終えると一階にあるN物産に行った。ここでは書籍や雑貨を売っていて、デザートにチョコアイスを買った。おおっぴらに食べるのも叶わないので、トイレの個室にこもって食べた。それからフロアに戻って打ち出されたプリントと棚に眠る書類の付け合せである。電話機は既に内線同士をつないで「話し中」の状態にしてしまうことが黙認されていた。七月のピークでもこれはあったが、そうしないと作業どころではないのである。

 夕方六時には食事のために寮へ戻った。食べ終わるとすぐに職場に戻って作業再開である。午後八時から二時間ほど会議が行われた。どこに問題があるのかという洗い出しだが、書類を回すためのプログラム修正と作業内容の変更が可能になるのは九月分からになるのが絶望的な気持ちにさせられた。それまではひたすら棚に埋まった書類の捜索である。

 部長は東京の本社に呼び出されてシステムチェンジの不備でつるし上げられていた。そのために部長でないとできない決済まで滞ってしまった。部長のパスワードが「1933」であることはみんな知っていた。それは最強の「特認」をやれる唯一のものである。営業上の理由で決定の原則を曲げる権限があるのは課長からだった。課長の机に持っていかなければならない書類の捜索をまずやり、そのあとのものが深夜である。

 金額が五千万円から一億円のものは副長・課長補佐で、一億円を超えたら課長だった。調査の指示を出すのは決定スタッフ全員に権限があるものの、判定は最低でも副長である。気がつくと課長の机は書類が完全にオーバーフローして横にダンボール箱が置かれていた。急を要するということでこのダンボール箱も捜索の対象になった。

|

« 東日本大震災(1871) | トップページ | 東日本大震災(1872) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 軍艦のある丘(8):

« 東日本大震災(1871) | トップページ | 東日本大震災(1872) »