下り坂(142)
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初夏の日差しが新橋のオフィス街に降り注いでいる。哲也は牛丼店で昼食を済ませるとオフィスに戻った。半そでのワイシャツは四十歳を超えてから着るようになったが、この夏は完全に必需品である。
三月十一日の震災の日はオフィスにいた。本体の採用活動の一部が依頼されて、エントリーシートのチェックをしていた。志望動機や入社してやりたいことに目を通して次のステップに進む案内を出すかどうかの検討である。
午後三時になったら茶菓子で一息入れるつもりだったのが一転した。長い周期の揺れがあって宮城県で震度7の揺れ、震源が海で大きな津波の恐れがあるというものだった。パソコンの画面はネットのニュースにした。東京も震度6で鉄道が止まった状態である。
自宅はどうなったのかと心配だったが、火災の発生がないので一安心だった。この時期は強い風で、自宅の中がどうなっているかということだった。背の高い家具は持たず、冷蔵庫の中身はほぼ空である。ノートパソコンは低いテーブルの上に置いていた。
自宅までは直線で十キロ程度なので徒歩で帰宅ということも考えたが、仙台空港が津波をかぶり、東北新幹線が被災して復旧に時間がかかるとわかったため、震災対応にあたることになった。
仙台空港には自社の飛行機がちょうどいない時間帯で機材が被災するのは免れた。東北新幹線が青森まで延伸して羽田と青森を結ぶ便は影響を受けると見られたが、これはJ航空にとっての問題である。青森への臨時便を設定する必要の有無、羽田と秋田を結ぶ便の機材大型化、山形と羽田・名古屋・大阪を結ぶ臨時便といった対策が次々に検討された。
福島空港は?となったところで原発の問題が明らかになった。冷却ができなくなってメルトダウンの恐れがあるというものである。十二日の夜に自宅へ戻った哲也は部屋の中が大丈夫だったことを確認した。立てかけていた竹刀袋が倒れて室内で干していた洗濯物が落下した程度だった。十三日には通常通り出勤したが、観光コンサルタントとしての仕事は棚上げとなり、社員・家族の安否確認に避難者の受け入れ、救援物資輸送といった問題の手伝いに明け暮れた。
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