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2013年4月 1日 (月)

下り坂(123)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 ヨークに向かう列車が出るキングスクロス駅もホテルから地下鉄サークル線で移動だった。リバープールはホテルのすぐ横のパディントン駅からだし、今回のホテル選考はよかった。インターシティの列車はディーゼルから電車になっていたが、最高速度は200キロのままである。フランスが300キロで走れるのは日本と同じように立体交差化を進めたからであるが、イギリスの場合は在来のままだった。

 ヨークまでは二時間かかった。鉄道博物館は駅のすぐそばである。京都の梅小路に一度だけ行ったが、最寄の駅が離れすぎているという印象だった。哲也は目玉になっている日本の新幹線車両のところに行った。それは山陽新幹線の「こだま」として最後の走行をしてからイギリスに譲渡されたもので、号車番号は「4」だった。K高の修学旅行で乗ったときと同じシートが並んでいて哲也はしばらく座っていた。イギリス人の見学者がいなければ日本にいるのと全く変わらなかった。

 それからイギリスが作った世界最高速度記録を持つ青い蒸気機関車「マラード号」や王室の御料車も見て回った。先日の科学博物館やビクトリア・アルバート博物館といい、古いものが大切に保管されている状況に歴史の重みを感じた。日本の飛行機はYSがかろうじて残っているものの、大きな機体を置くスペースの関係もあって、退役した機材の保管は少なかった。

 新しい北九州の空港に飛行機の展示スペースを作るのはどうかという意見があったのを哲也は見たことがあった。その候補にクジラの塗装をした747という案であるが、そのための格納庫を作るのは費用を誰が負担するのか問題だった。やはり飛ばないと駄目だろうとなっても蒸気機関車と違い、「足が地についていない」のが高いハードルである。

 ヨークを離れたのは夕方だった。ロンドンに着くと暗くなっていて男の一人旅でも駅のそばに宿を取っていないと不安な感じである。世界に植民地を持っていた関係で「よく日焼けした人」が目立つのは東京との大きな違いである。屋外の自動販売機もなく、照明も弱かった。

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