下り坂(132)
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携帯のメールに部の監督から「新入社員から連絡のメールがありました」という伝言があった。どうやら続けてくれる意思はあったようだと哲也は感じた。「小学校で始めたときから見ていましたので、よろしくお願いします」と返した。実業団も国土交通大臣杯もメンバーはぎりぎりの状態で不戦敗で敗退というようなことも毎年起きていた。J航空はD航空を吸収合併したものの、やはり剣道どころではないというような状態になりつつあった。
ロンドンでのシンポジウムが終われば、また観光コンサルタントとしての活動も再開である。新たな担当は鹿児島だった。九州新幹線は博多と八代をつなぐ工事が本格化してやがて大阪と熊本や鹿児島を結ぶ路線は影響を受けるだろうという見込みだった。そんな状態でも新幹線から離れた場所はどうやって観光客を呼び込むかという問題を抱えていた。そのほか、首都圏の空港ということで羽田の国際化も挙がっていた。
三度目のロンドンも成田からであるが、羽田では四本目の滑走路を作る工事が進められていた。これで南北二本、東西一本だったのが、それぞれ二本ずつとなり、発着数も増えることとなった。三十年前に成田が開港して羽田は国内、成田は国際と分離されたものの、それが再び一緒になると期待できたのだが、成田の反発を考慮して国際線はソウルと北京のみに限り、長距離は成田に残すのではとも言われていた。
ロンドン、パリ、ニューヨークに行く路線を早朝・深夜にする場合、地方との乗り継ぎが問題だった。出発は深夜、到着は早朝ならば地方からの乗り継ぎも便利だが、それなら海外のエアラインには機材を昼間寝かせておくという不利な条件となった。もっとも一日二便ならばそれもクリアは可能だが、そうなると機材の小型化が必要である。
哲也が関わった7X7は、787として夏に行われる北京五輪で成田と北京にデビューするはずだったが、テスト飛行で様々な問題が出て、一号機の引渡しがなかなか出来ないという状態に陥っていた。767の置き換えや新しい路線の開設もままならず、哲也は気をもんでいたがどうにもならなかった。
737の新しいタイプは主翼の先端に補助翼をつけ、燃費を向上させていた。エアバスA320はいずれ退役してボーイングに統一するという流れである。さらにМ重工が100人乗りの小型ジェットの開発を進めることになってA空輸は最初に導入することが決まった。平田はこのプロジェクトには関わらず、787の主翼に取り組んでいた。これは名古屋で組み立てて貨物専用機でシアトルに運び、ボーイング工場で胴体に取り付けという流れである。
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