軍艦のある丘(4)
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午後五時には一般職の社員は三々五々帰途についた。棚に書類を格納する作業は何とか六時には片付いて寮に戻る目途はついたものの、新人がサッサと帰るのは許されない雰囲気である。課長に業務日誌を提出して課長が帰宅するのが午後六時半くらい。それから寮に向かうという状態だった。寮の食堂の夕食は午後六時から八時の間と決まっていて、残業が長引く場合は一時帰寮である。
八月に行われる業務のシステムチェンジに備えた「ストレステスト」を手伝って欲しいという事務企画からの要請で、この日は午後八時から午後十時まで3階にある準備室に行くことになった。それで寮の夕食は「欠食届」を出し、二年目社員のプレリュードに便乗させてもらって丘の下のファミリーレストランに行くことになった。他の新人三人も同様で、午後六時半に職場を出て丘の下に下りた。
2年目の先輩はМ大学の出身である。配属の希望は資産運用部門だったが、希望が叶うのはごく少数だった。保険契約を集める営業部隊は「陸軍」集められた保険料を運用するのが「海軍」と言われていたが、泥臭い「陸軍」よりもスマートそうな「海軍」のほうが格好良く思われた。とりわけ「ザ・セイホ」とまで言われた資産運用は財テクの流行できらびやかな舞台となっていた。
資産運用や海外勤務をしたければTOEICで高いスコアをマークしろと先輩は言った。内定者が集められた十月と入社式直後にTOEICが行われたが、スコアは400点台で、海外勤務に必要な730点にはほど遠かった。大井に来てからは毎日がてんてこ舞いで新人研修の一環である業務日誌とN経済新聞の記事チェックが精一杯だった。六月には業界団体の主催する「生保講座」という試験が始まり、これをクリアしないと昇進することは不可能と言われた。
会社では五年目までが書記という一番下のクラスで、六年目に副長に上がれるかどうかが重要だった。その先は課長補佐、課長、次長、部長となっていくが、課長代理、部長代理はそこで打ち止めである。総合職の書記は「カデット」という士官候補生であるが、営業職は支部長という管理職が軍隊でいう「准尉」のようなものだった。
ハンバーグステーキを食べ終わると丘を登った。5階から上の「艦橋部分」は7階の保険金部が真っ暗である。契約を取る立場の支社と審査を行う本社はしばしば対立の関係になったが、金の支払いとなると支社と本社のベクトルは重なるため、この部署は楽と言われていた。その上の企業年金は夜遅くまで煌々と明かりが点り、営業人事部は比較的早く電気が消えた。
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