軍艦のある丘(14)
前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m
冬はヨーグルトムースのような富士がよく姿を見せるようになった。新しい体制もすっかり安定して十一月の販売強化月間も乗り切れた。担当エリアで十一月二十一日に五億円の契約申し込みと一回目の保険料領収、二十三日に健康診断、二十五日に交通事故で死亡という事案があったが、保険金部との間で大量の判子が押された書類をやり取りして成立させた。責任開始日というのはこの場合、二十三日である。
十二月には「変額保険取り扱い」の試験を厚木支社で受けた。新入社員研修のときに「保険募集人資格」という営業に必要な資格を取っていてこれが二番目の資格となった。この資格が取れる前に変額保険を取ってくるとエラーとなったが、資格証のコピーでエラーを消すことになった。この権限は私のパスワードでもできた。変額保険というのは運用実績によって保険金が変わるものであり、それは特別勘定として扱われた。
年末・年始は実家で過ごし、年が明けると生保講座の「税法」「資産運用」の試験がやってきた。これを受けるために横浜支社まで出向くのは大変だった。午前十一時に職場を離れて、他の部署は横浜で遊んで戻ったが、契約の部署は夕方には戻って書類の整理をやらなければならなかった。
支社対応四人の誰の車で新松田駅まで移動するかということで、紺色のギャランで行く事になった。鹿児島まで走った中古のレビンは走行距離が八万キロを超えてから不調になり、新しい車の検討が始まっていた。もっとも年末の帰省は羽田へ出て飛行機となった。
新松田駅の近くには会社の契約駐車場があって二十台まで置くことができた。許可証をダッシュボードに置いて踏み切りを渡った。新松田の駅の入り口は一箇所だけである。ロマンスカードでは海老名で相模鉄道に乗り換えて横浜までを買った。
他の部署の者は横浜まで車で行くつもりなのか見かけなかった。車を持たない保険金部の者はバスで駅に来たようである。新宿行きの急行は白い車体に青い帯を入れたタイプである。みんな車内ではピンク色のテキストを広げた。
海老名で乗り換えた相模鉄道の電車は緑色だった。沿線は宅地化が進んでいて最初はガラガラだったのが次第に客が増えた。横浜の近くではJRと並走するようになり、横浜駅の西口に行き止まり式の駅となっていた。
| 固定リンク
コメント