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2013年4月 3日 (水)

下り坂(125)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 研究所は本社と同じビルなので、通勤ルートには変更がなかった。気分を変えて転居してはどうかと親からも勧められたが、S剣友会のつながりを捨てることは出来なくなっていた。通勤を楽にするならJRの京浜東北あたりという案もあった。ここなら羽田へのアクセスもよくなった。

 昼食はビルの外に出て出来るだけ安く済ませるようにした。ビル内の食堂はおおむね千円以上の予算になったからである。昼休み時間に自分のデスクでネットをすることもあるが、それはニュースを見ることである。玉竜の時期になって外を歩くのは暑くてかなわないとなるとコンビニで弁当を買ってデスクで食べるというスタイルになった。

 K高の女子は大原の妹に続いて島田の妹も入った。平成十七年のときは大原の妹が大将、島田の妹は先鋒だった。最初は山口からのチームに四人抜きして大将と引き分け、次が長崎のチームに島田が引き分けたあと、四人抜きされてしまった。その相手はベスト八まで残った。

 平成十七年の男子は五回戦まで進んだ。キャプテンで大将の岩下は四回戦まで出番がなく、大阪のチームの大将と戦って相手の手元を浮かせて胴を切った。五回戦は引き分けでハイライトシーンはなかった。相手はO高校で準優勝だった。ここにもN中出身がいて副将を務めていた。

 一年たって女子は大原が中堅、島田が大将になっていた。先鋒の一年生もN中出身で、勢いのある剣で四回戦まで合計十二の勝ち星を挙げた。五回戦が同じ県のC高校で島田が相手の副将と引き分けて終わった。男子はN中出身の長谷がキャプテンで大将に入った。こちらも一回戦は出番がなく、二回戦で広島のチームとあたった。長谷は相手の副将から引き胴を奪ったが、小手で追いつかれて終わった。

「夏休みはどうするんですか」

 画面を切り替えた哲也に隣の席のK主任研究員が尋ねた。この人は哲也より四年上で、大阪・本社旅客営業本部・札幌・本社広報部・沖縄・本社調達部・北京駐在を経ていた。生まれ育ちも東京で、大学も東京である。中国からの観光客誘致や沖縄の観光が担当だった。

「盆が終わってから九州に少しです」

「九月になると台風を気にしないといけないですね」

 沖縄への出張は天気図との相談だった。哲也は今のところ山口だけであるが、他にも観光コンサルタントという形で回る可能性が出てきていた。

 

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